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 今日は風も強い。
 雨にけぶる滑走路を見て、ハワード・メイスンは思った。
 そこは基地にある休憩室の一つで、ハワードは訓練前にしばしこの場所に立ち寄り、頭に入っている気象データを実際の空と一致させる。
 もちろんそれは今も変化をしていて、実際に滑走路に着くまでにも変わってしまう。そして上空は地上とまた異なる。
 それでも目の前の空はハワードの予想に大幅修正を必要とせず、そのことに小さく満足し、ハワードは口元を緩める。
「君も雨が好きなのかい」
 呆れたような声が掛り、ハワードは顔を向ける。
 技術顧問のビリー・カタギリだ。
 まだ湯気の上るコーヒーを手に、ハワードと並び窓の外を見ていた。
「嫌いではありませんが、特別好きというわけでは」
 そして言外に問われる人物のいかにも楽しげな顔を思い出し、苦笑を浮かべる。
「中尉も晴天の方が好きだと思いますよ」
 ハワードの言葉にカタギリもつられるように苦笑する。
「その割に雨の日のフライトは無茶が多い気がするんだけど」
 カタギリの言葉は当たっている。それは実際の飛行データでも明らかなことで、それは「悪天候の為に機体に負荷が掛っている」というレベルではない。
「それは、いつ出撃要請があっても対応できるよう鍛練されているということで」
 苦言を分かっていながら弁護するような言葉にカタギリは一瞬目を丸くし、笑った。
「君のグラハム贔屓も考えものだなぁ」


 グラハム・エーカーは雨を嫌う男ではない。
 ハワードがそれを知ったのはもう5年以上も前のことで、その日からハワードは雨のフライトを以前より嫌いではなくなり、それと同時に彼の空が有限のものであることを知った。
 米軍第三航空軍戦術飛行隊に配属されてからグラハムと同じ小隊になったのはしばらく経ってからのことだった。
 ハワードは雨の空を眺め溜息をついた。
 雨は苦手だ。
 視界が悪く、広い空が制限されているように感じられる。しかし実際の出撃が天候に左右されることはほとんどない。
 雨で止まる争いなどない。
 ハワードもそれは十分に理解し、雨の日の訓練も非常に重要だと分かっている。それでも好きか嫌いかで言えば嫌いとしか言いようがなく溜息も出る。
「雨が嫌いか?ハワード・メイスン」
 明るい声が背中に掛けられる。
 溜息が届いたのだろう、しかし振り向いた先、グラハムの顔はそれを咎める様子はない。
 ハワードは慌てて礼をし再び空を見やり顔を戻す。
「正直なところ雨はあまり好きではないですね」
「私も晴天の方が好きだがな。しかし君のフライトデータでは雨の日に特別遜色は見られない」
 グラハムの言葉に驚く。
 グラハムはハワードと同じ歳で、モビルスーツに乗り始めた経歴も近いものがある。
 それでもグラハムの飛行技術は抜きん出るものがあり、実際階級も上になるが、それ以上に同じパイロットとして既に尊敬の念を抱いていた。
 最近あった隊の再編で同じ小隊になったとはいえ、そんな男が自分のことを少なからず気にしたということはハワードを驚かせるには十分だった。更に言ってしまえばどちらかといえば周りに無頓着なタイプだと認識していた。
「好きではありませんが、訓練も任務の一つですから」
 驚きを苦笑いに変えハワードは返事をし、グラハムはその返事にか満足げに頷く。
「君は良いパイロットだ。だから雨の日の飛行ももっと有意義なものにしよう」
 空よりも明るい笑みに、ハワードの気分も知らず浮上し始めた。

 飛行形態のリアルドが編隊を乱さずに駆ける。
 予定通りのルートを予定通りの時間に。しかし気流の乱れがひどく機体制御に神経がすり減る。緊張からパイロットスーツの中は熱がこもっている。
『良いフライトだ。時間も予定通り。それでだ、少し寄り道をしよう』
 言うなり、こちらの誰の返事も待たず、基地の方向に向け旋回したグラハムの機体は、急浮上を始めた。
「寄り道?」
 離陸前にいった有意義な飛行というものだろうか。
『分からん、着いてくしかないだろ』
 緊張を緩めず、追う機体もみな浮上する。
 気圧が変わり雲の流れも変わる。操縦桿を握る手もグローブの中でひどく汗ばんでいる。
 グラハムのスピードは全く落ちない。機影が薄くなる。
 追って追って、編隊がやや乱れてもみな追いかけた。
 ふと明るさを感じた瞬間、機影が消える。一瞬の後ハワードは雲を突き抜けた。
 目の前には空。夕闇がほんの僅かに手を伸ばしている。振り返れば厚い雲の海。
 音が世界から消えたような沈黙が下りる。
『空だ』
 それを破るように仲間の一人が言った。
 誰もが、雨雲が空の全てを覆うことはないことを知っていたのに、誰もが息をのんだ。
『ああ空だ』
 グラハムが肯定する。
『悪条件に挑む面白さも、その先にある空の青さも、私を魅了して止まない』
 雨も悪くないだろう?と明るい声が続く。
『中尉、それにしてもハードですよ』
 連れてこられた者達の苦笑が続く。
『まあそう言うな、ほら星も見え始めている』
 ハワードも空を仰ぐ。明るい空に浮かび始めた1等星を見つける。
『このさらに向こうは宇宙だな。そういえば、宇宙部隊には誰も興味はないのか?』
 考えたこともなかった。
 ハワードの空は重力のある地球の上の青い空だった。
 そして今、誰よりもその空を飛ぶ男が目の前にいる。
『ハワード、さっきからだんまりじゃないか』
 グラハムのように飛びたいと思っている。彼を超えることは出来ないかもしれないと少し思っている。
 空に制限はなく、ハワードには目標とするものが目の前にあり、それは飛んでも飛んでも追いつけないのではと思うほど日々大きくなっていく。
 そこは大気圏の中で、更にグラハムの飛ぶ場所だ。それがハワードの空の有限。それはしかし、未だ限りなく広い。
「ここが私の空です」
 良い空だとグラハムは笑った。


「カタギリ技術主任がグラハム・スペシャルは次回以降にと」
 前を行くグラハムのフラッグをハワードは正確にトレースする。雲の中で機体は見えないがグラハムの飛行に常と変ったところはない。
 飛行サポートのシステムを変更したばかりなのだとカタギリは言った。
 それはグラハムの要求に応えてのことだ。
 グラハムの期待に応えたい、しかしその身も案じないではいられない。グラハム贔屓というのはカタギリの方だとハワードは思っている。
『その為のシステム変更だというのに』
 不満げな声に聞こえた。
「この天気ですから。通常飛行に問題がなければ明日にも許可されますよ」
『…雨なんてなんのことはないのにな』
 逡巡の間があったが、諦めたという風にグラハムは言った。
 悪条件も楽しむ男だ。カタギリも本当は理解している。
『ではハワード、代わりに少し付き合いたまえ』
 言い終わらない内に浮上を始めたフラッグを、ハワードは当然のように追う。
 その向こうに彼らの空がある。