憎悪の声が彼の耳に聞こえた、誰のものとも判別が出来ないほどの沢山の声。 頭の中を突然揺す振られるような痛みと不快感、しゃがみ込みそうになる体を叱咤して顔を上げる。 前から歩いてきた男、ぶつかりそうになるのを慌てて避けようとしたが肩がぶつかり、弾かれるような勢いによろめく。 耳鳴りのように響いていた無数の声は遠ざかっていく。 「すみません」 反射的に彼は謝った。しかし男は背を向け歩いていく。 (あれ?) その向こうには見慣れない景色があり、彼はまた違う場所にいる。 しかしそれより違和感を感じるもの、謝ってほしかった訳ではないが、気付いてもいないような男の様子。 「あなた、大丈夫?」 背後で女性の声がした。中年の女性が気遣わしげに彼をのぞき込んでいる。 「はい、大丈夫です」 彼はふらつく体を真っ直ぐに起こす。 空の色にも、周りの景色にもやはり見覚えはない。バスのロータリーのような広場のような場所だった。 女性が近くにあったベンチを薦めてくるのに従い彼は背を預ける。 大きく息を吐く。立ち眩みは止まったようだが気持ちが落ち着かなかった。 「さっきの人、ぶつかっていったのに何にも言わないで」 「いえ…ぼうっとしてた俺の方が悪いんですよ」 「本当に?でも、あなた顔色が悪いわ。大丈夫?」 初対面でありながらも心配げな顔を向けてくれる女性。彼には子どもを心配する母親のそれと同じように見えた。 しかし不快感を伴うような突然の頭痛も、ぶつかっていった男に感じた違和感も彼にもその理由は分からないし、女性にも説明のしようがない。 「すみません、ちょっと立ち眩みがしただけで」 もう平気だと、小さく笑みを見せた。 彼は女性の座った向こう側に花束を見つける。出掛ける途中、足を止めてしまったのではないかと彼は詫びる。 「大丈夫よ、急ぎの外出ではないし。バスも混んでるみたい」 動いた彼女の視線を追うように顔を上げた彼は、バスの発着案内の電光掲示板を見つける。 流れる停留所の名前、彼は目を細めて知っている地名に結び付くようなものはないかと考えるが思い当るものはない。 「もしかして、あなたもお墓参り?」 (え?) 思案の顔がどう映ったのか、寂しげな声で女性が聞く。 墓参り、つまり女性の花は墓前に捧げるものということなのだろうか。 彼の家族が巻き込まれた自爆テロ事件はその後に慰霊碑が立つほど大きなものだったが、事件のあった日は巻き込まれた多くの人々の命日であり、慰霊碑に献花に訪れる人も家族の墓地を参る人も多い。 ソレスタルビーイングに入ってから、その日に毎年訪うことは出来なくなったが彼は知っている。 しかしここはアイルランドとは思えない。彼女が同じ事件で家族を失ったとは考えにくい。 「どうして…また、ガンダムなんてものが出てきちゃったのかしらね」 (ガンダム!) 悲しげに目を伏せたその女性は、思わず目を見開いた彼に気が付かず言葉を続ける。 「アイオワにも家族を亡くした人が沢山いるから」 アメリカ…アイオワ州。民間の軍需工場があり、そこへチーム・トリニティによる武力介入が行われた。 背中を冷たいものが流れる。 「アイリス社の…」 呆然と呟いた彼の声に女性ははっと顔を上げ、苦笑いを向ける。 「ごめんなさい、一人で勝手に」 彼は首を横に振る。 同じソレスタルビーイングの名を持った彼らの付けた傷跡、過ぎた年月に消えることはなく今も確かに存在する。 世界は彼が望んだようには変わっていない。何度も色々な場所でそれを見てきた。 連邦政府の樹立という形でまとまったと思える世界、しかしそれに対し反連邦感情を抱いた者たちも出ている、カタロンもその1つだ。 一度は終結した紛争が再び始った、中東への抑圧、当然反発心を持った諸国があり、現状は更に悪化した。 「あの人も、帰ってはこないわ」 彼は大事な人を失う悲しみを知っている。 しかし彼はガンダムに乗って人を殺めた。その矛盾を消えない悲しみを作った一翼だ。 AD.2312…電光掲示板を流れた数字。アイルランドで彼が刹那に会ったのは1年前になる。 (ガンダムが現れた?) あの澄んだ瞳がこの世界を見て、再びエクシアを動かしたのだろうか。 彼は歩いた。 ガンダムの出現は紛れもない事実として報じられていた。 (ガンダムはどうして現れた?) ソレスタルビーイングがガンダムによる武力介入を行う。そこには武力によって破壊しなくてはいけない紛争の影があるはずだ。 しかしガンダム出現の理由は何か、その報は伝わってこない。 カタロンやアロウズのことも、その動向の殆どを掴めていない。 かつて聞いた、クラウスの憂いを含んだ言葉。 彼は自らの足で中東の街に立ったこともある。彼は砂漠を走る車に便乗し、車中で粒子散布装置を見た。 GN粒子は通信網を遮断する。その性質はソレスタルビーイングには必要なものだった。しかし人革連はその裏を突き、双方向通信の通信網の遮断地点から所在を突き止められたこともあった。 擬似GNドライブの量産から生まれたもの。かつて化石燃料を主流としていた頃、中東のあちこちで見られた油田採掘地に立っていた塔を彷彿とさせる散布装置。その先端から溢れる目に焼きつく、炎のような光。 俄かに浮かぶ『情報統制』という言葉がある。それは中東だけの問題ではない。 ソレスタルビーイングの存在を世界が否定すること、否定されるだけの存在であることを理解している。 彼にはガンダムが現れたことに何の理由もないとは思えない。 今起きていること、本当のこと、ソレスタルビーイングが本当に動いているならこれから何をしようとしているのか、彼は知りたかった。 その頃、彼は既に自分の記憶に違和感をもつほどの綻びを感じなくなっていた。 そうして気が付く、花が開く数と戻る記憶の数が一致しなくなっていこと。 もう一つの変化、彼に気が付かない人が増えていること。 しかし、その変化の意味は分からない。答えを持っている人もいない。 変われなかった自分。変わりかけたように見えた世界。 再び、その地に降りた彼は、争いの消えない世界を目の当たりにしている。 熱風が彼の身を包んだ。 肌が焼けるような恐怖心、しかし熱風に続いた耳をつんざくような叫び声に彼は目を開けた。 彼の目前に迫るもの。 (火事?) 火が建物を焼いている。そしてあちこちからもうもうと上がる煙は火の明かりに照らされ空を覆う。その向こうにある空は闇、夜だ。 その空の下に彼はいた。 突然足に勢いよく何かがぶつかる。 足もとに蹲った子ども。 彼にぶつかって転んだのだ。目にいっぱいの涙を浮かべ、震える手で必死に体を起こす。 慌てて子どもを抱き起こし体についた砂を払う。 「すまない、立てるか?」 遠くで悲鳴に近い女性の声がした、誰かの名前を呼んだように聞こえた。 続いた男の呻き声。すぐ近くで男が石の下敷きになり苦悶の表情を見せている。 彼の声に頷いた子どもが、はっと顔を上げる。 「母さんか?」 子どもがもう一度頷く。 「早く逃げろ。母さんとはぐれるんじゃないぞ」 軽く肩を叩くと子どもは一目散に走っていく。一人で行かせるのは心配だったが、彼は急いで男の方に走り寄った。 「大丈夫か!?」 体の半分を覆った石を一つずつ下していく。 (ここはどこだよっ、何が起こっている?) 突然目の前に現れたの惨状に彼は混乱していた。しかし呆然としている暇などない。 右の肩から腕に掛け、大きな石が乗っている。 「動かすぞ」 痛みに叫ぶ男の声を振り切るように思い切り石を押す。ようやく転がった石の下、男の右腕は血にまみれていた。 「立てるか?」 左腕を肩に掛け背中に添えた手に力を込め、抱きかかえるように半身を起こす。 男が、左手で不自由そうに頭に巻いた布を外す。 「肩を縛ってくれ」 男に促され肩に布を回す。きちんと止血が出来ているか自信はなかった。しかし歯を噛みしめた男の意に沿うようにきつくそれを縛った。 起こした反動でだらりと揺れる右腕は治らないかもしれない。 「ああ」 男は荒い息の中で強く返事をした。 避難を促す声が遠くで聞こえる。右足を引きずるようにしてようやく立った男に肩を貸し、声の方に向かって歩く。 安全な道を探しながら、それからこの場所を知るため彼は周囲を見渡す。 土や石でてきた壁、あちこちにできた火の海、辺りを包む煙。逃げまどう人々の足音、叫び声、泣き声、爆発の音、何か落ちる音、建物の倒壊する音。 「すまない」 乱れる呼吸の合間に男が言った。 浅黒い肌に黒い髪の男、彼より年長だろう。激痛と熱さに額には汗がびっしりと浮かんでいる。 「気にするな。それより…何が起きたんだ」 周囲を気にしながら彼は問う。 男が黙った。担いだ腕が震え出す。彼は男の変調に驚き顔を見る。 「…分からない。空から急襲されたんだ、でも…」 見開かれた目。燃えさかる火の光が映りこんでいるような強烈な光がそこにある。 「俺は見たっ、あれは、あの機体はガンダムだ!」 震える唇が吐き捨てるように言った。男の全身を戦慄かせるもの、それは怒りだ。 男を支える彼の手が震えそうになる。 (ガンダムがこの惨状を引き起こした?) 信じがたい言葉だ。 自分が乗ったガンダムは理由もなく突然街を火の海に変えたりはしない。 再び活動を始めたソレスタルビーイングにいるのが刹那達なら、こんなことはしない。 向こうから駆けてくる男が誰かの名を呼び、肩を貸す男がそれに応える。そこに怒りの表情は一時的に消え、安堵が浮かぶ。 彼の知り合いなのだろう。 近づいてきた若い男は、右腕の怪我に驚き、支えていた彼に礼を言う。 「被害の状況は?警察はどう動いている?」 荒い息をついで、男が問う。 「庁舎がやられた。軍も…たぶん殆ど機能していない」 「そうか…」 苦い沈黙、しかし感傷に浸る暇などなく、沈黙を破る様に近くで燃える建物の屋根が派手な音を立てて落ちた。 勢いに煽られ激しく火の粉が散る。 「すまない、彼を任せていいか?この先に開けた場所があるんだ」 若い男が、彼の方を真っ直ぐに向いて聞く。 「ああ」 彼の返事を聞き若い男は走って行った。 炎は大きくなるばかりだ、そして警察も軍も機能していない。最悪の状態だ。 歩き出した彼の背で男がまた、詫びる言葉を言い、彼もまた気にするなとしか言えない。 炎が途切れた先、たくさんの怪我人が身を寄せるようにして広場に集まっている。歩ける者が水や布を持って慌ただしげに動いている。 「この国は…」 途方に暮れたような力のない声が、呻きと共に男の口から落ちる。 彼は男を広場の片隅に座らせた後、再び火の中に入って行った。 そこにいるたくさんの人を救う手立てを自分は持たない。火の中で息のある人を見つけては彼は肩を貸し、背を貸し、走り回った。 じっとしていることが出来なかった。 『この国は、どうなるんだ。俺たちのアザディスタンは…』 右腕を負傷し肩を貸した男が言った。 彼はかつてこの国を訪れたことがある。 内紛勃発の火種を鎮める為、何者かに拉致された保守派の指導者マスード・ラフマディーを保護した。 しかし内紛もテロ活動もなくならなかった。尽力してきたラフマディー氏は既に亡くなっている。 この国も変わっていない。否、ある意味変わってはいる、望まない形に。 泣き声がした。燃える炎の轟音の中で、耳をすませる。 声の聞こえる場所、彼は迷いなく焼ける戸口の火の輪の中に飛びこむと、彼は蹲り泣き叫ぶ小さな子どもを見つけた。 「ほら、行くぞ」 手を取ろうとした、しかしその小さな柔らかそうな手は石のように硬い。 全身を覆う熱風の中、指先に感じた氷のような冷たさに驚き思わず手を引く。 (なんだこれ) 遠くでまた何かが崩れ落ちる音がする。 「行くぞっ」 自分を鼓舞するように彼は言った。 抱きかかえて、この場所を飛び出せばいい。それだけのこと、しかし子どもの小さな体はしっかりと根を下ろした大きな植物のようにびくともしない。 (ふざけんな、) 泣き叫ぶ子どもの声が耳鳴りのように彼の頭を揺らす。 子どもは彼に気が付いていない。 彼に気が付かないものに、彼は何も及ぼせない。 彼がぶつかった肩に痛みを感じない、彼の声が聞こえない、彼の引きとめた腕はほんの僅かの力に振り解かれる。 (なんでだよ) 彼は入ってきた戸口を走って出た。 子どもを助けられる人を探さなくてはいけない。 声がした、誰か来てくれ、子どもの泣き声、早く、火の粉が彼の耳元で弾ける。 鈍い、木の軋む音。振り返る、軋み折れ崩れる、火の輪の形をした戸口がひしゃげる。破壊音は止まらず、家は崩れる。 呆然とする彼の耳から全ての音が遠のく。 燃えさかる街は、中東の小国アザディスタン王国だった。 夜が明けても火は完全に鎮火しなかったが、明るみの中で彼の白い肌は少し浮いていて、時折向けられる訝しげな視線から身を隠すように路地に入った。 建物の壁に凭れしゃがみ込む。 燃える街、逃げ惑う人々、収拾をつける為に動くべき国の機能が失われ、ただ居合わせた人々の小さな力だけが僅かの命を救い、傷に手を当てている。 助けられなかったもの。 悼むように指をそっと乾いた地面に押し当てる。 芽吹いたものに、枯れた土地は酷かもしれない。彼は自分の手を強く握りしめた。 突然の攻撃。上空を駆けたモビルスーツ、その中に1機赤い機体があったと、あれはガンダムだと、叫ぶ声の中で幾度が聞こえた。 彼が街に立った時には攻撃はとうに終わっていたと思う、それから空は立ち上る煙に覆われていた、しかし彼は聞いた瞬間に思わず空を仰いだ。どんなに目を凝らしても彼はその機体を見つけることが出来なかった。 赤い機体のガンダム。 (ガンダムスローネツヴァイ) まさか。 決して薄れることのない記憶の映像。 その機体に最期に乗っていたであろう男、家族の仇。 民間人への一方的な攻撃、その非常識な振る舞いをその男ならばやるだろうと彼は思った。 その男が生きている可能性を知ってしまった。 しかし、胸の中を占めているのは怒りよりも憎しみよりも深い悲しみだった。 生きていたとして、命の尊さを知っていても、彼には到底許すことは出来ない。 ただ、彼はもうその男へ銃口を向けることが出来ない。 その男の振るった暴力に、泣き叫ぶ子どもを救う術を彼は持たない。 間に合わない届かない。 不意に近づいた足音と共に、路地に男の声がした。 彼の姿を認めてからか声は僅かに潜められた気がしたが、構わず彼の前を通り過ぎていく。 俯いた足もとの景色を動いていった影。二人の男だろう。それをぼんやりと見ていたが、すぐにその足音が戻ってきて目の前で止まり彼は僅かに警戒をする。 「あんた怪我してるのか?」 ほんの少し顔を上げる。 予想した通り二人の男が立っている。彼を覗き込んでいる一人の男、その目にも声にも咎めるような色を感じず彼は首を横に振った。 煤にまみれ、しゃがみ込んでいる彼を怪我人と思ったのかも知れない。 「本当に?歩けないなら肩を貸す。壁が崩れかけてる、ここは離れた方がいい」 言い募る声に彼はゆっくりと腰を上げる。こういう人のことを放って置けない性質の男はちゃんと確認しないと気が済まないのだ。彼自身もそんな性質だからよく分かる。 「忠告ありがとう、広い場所に移動するよ」 無理に笑って見せた彼に後ろにいた少し年長の男が顔を上げる。 現地の人間には見えない彼を訝しく思ったのかもしれない、しかしよくよく見れば男達も中東の出身らしからぬ外見だ。 フリーのカメラマンやジャーナリストという類はどこにでもいる、彼らもそんなようなものかもしれない。 こういう種類の人間は色々な情報を持っている可能性がある。それは危険も伴うと彼は分かっているが、自身の存在に危険も何も関係がないような気がした。 「ジーン1じゃないか」 彼は何か話をするきっかけを探したが、それよりも早く、後ろにいた男が突然歩を詰めてきた。 驚きが顔に出ないように堪える、しかし突然様子の変わった男に彼は僅かに怯む。 (なんだ、ジーン1?) 「どうした?」 始めに彼に声を掛けてきた男も首を傾げる。 「ヨーロッパ支部にいただろう」 彼は呆気に取られる。 呼び掛ける声音で紡がれた単語、つまりそれは名前だろう。 しかし彼の持つ二つの名前『ニール』でも『ロックオン』でもない。 『コードネームは呼ばないぞ』 苦笑交じりに言った男の声が蘇る。 全く馴染みのない単語が急速に意味を持つ。 「あんたら『カタロン』のメンバーだな」 探していたものの手がかりが一つ唐突に目の前に現れた。 「お前もカタロンじゃないか」 思わず取りすがる様に腕を掴んだ彼の手を、男は小さな笑みを乗せ軽く叩いた。 「先に言っておく、俺はカタロンの『ジーン1』じゃない」 襲撃を免れた建物の一室に彼らと共に入った。 この部屋に来る前に彼はそれを告げていた。 全くカタロンの状況を分かっていない自分に、例えばヨーロッパ支部の状況だ何だと聞かれても全く誤魔化せる自信はなかった。 ライルを知っていた年長の男は同じ顔、同じ声をしている彼がそんなことを言い出して訝しんだ。馬鹿なことを言うな、だったら誰だというのだと。 男の言葉はもっともで、自分が彼の双子の兄で、カタロンに所属し消息を掴めない弟を探していると正直に告げた。汚れたコートをその場で脱ぎ、武器や盗聴の危険のないことを示し、その上で話を聞かせてほしいと頼んだ。 もちろん彼の持ち物に武器も盗聴器も発信機もなかったが、あまりの軽装に男たちは呆れ顔を見せ、とりあえず彼の同行に応じた。 男はライルの所在を知らなかった。元々、ヨーロッパ支部で何度か顔を合わせたことがある程度で、2年前に中東の支部に移っていたという彼はそれ以降のライルの所在を知らなかった。 昨夜、アザディスタンを襲ったものについても多くの情報を持っていなかった。 彼が聞いたのと同じように、彼らも赤い機体のモビルスーツを見ていた。その特殊なフォルムはやはりガンダムのようにも見えたと。 「ソレスタルビーイングの動きをあんたたちは知っているか」 男たちは顔を見合わせた。 ガンダムの話題が出たところで思いきって聞いてみたが、質問を焦ったかと彼は内心冷やりとした。 「…昨日、支部の一つがアロウズの強襲を受けた」 「アロウズが?」 アロウズは連邦軍の精鋭部隊だ。 反政府組織というものが、そんなものに対抗するすべを持っているのだろうか。 「詳細の報告はまだ。…しかしその前に、カタロンはソレスタルビーイングと接触をしているはずだ」 (接触?) 男は彼の方を一瞥し、重たげに続けた。 「ソレスタルビーイングが活動を再開した直後、構成員の一人がソレスタルビーイングの接触を受け、今ソレスタルビーイングの一員として行動を共にしている」 (ああ、そうか) 俯き、彼がついた溜息に男が口を紡ぐ。 「その構成員が『ジーン1』、ライルか…」 「機密事項だ、詳細は上層部しか知らない。俺も中東に移っていたし噂程度にしか話は聞いていないが、しかし俺もそんな気がしていた」 あんたは本当にジーン1じゃないんだな。 顔を上げた彼は男の気遣わしげな顔を見る。 カタロンという組織は人の良さそうな男が多いもんだなと彼はぼんやりと思った。 刹那を最後に見た時と接触したという時期は一致しない。しかしきっと刹那はライルに手を差し出した。そしてライルはその手を取った。 (しかしカタロンの構成員としてソレスタルビーイングに入った?) まるでスパイだなと、思わず浮かんだイメージに、意外な強かさを感じ彼はつい笑いそうになった。 止めたいと思った、止められないと思った。止まるはずもなかった。 あんなに守りたかった弟は、自分の力で、自分の意思を貫いて生きている。自分と同じように、自分と違う方法で。 「あんた、大丈夫か」 笑みの形に歪んだ口元を見て、訝しむように若い男が口をはさむ。急に知らされた身内の状況に、パニックになっていると思ったのかもしれない。 彼はこれ以上なく冷静にその話を聞いていた。半ば自棄のような気持もあったが。 「大丈夫だよ。あんまりあいつが図太そうで、ちょっと安心して」 少し目頭が熱くなったように感じた。 「なぁ、もう一つ聞きたいんだが」 彼は向き直る。 「仲間にクラウスって男がいるだろ。あいつは今無事なのか?」 男たちはぽかんと彼を見た。 「知っているのか」 「一度だけ会ったことがある、あいつも俺をライルと勘違いしたけど、カタロンの仲間だろう?」 男たちはまた顔を見合わせた、またまずいことを聞いただろうかと彼は思う。 「無事だと思う。だがクラウスは、襲撃を受けた第三支部の支部長だ」 柳の葉が風にそよと揺れるような儚い気配が彼を呼んだ。 展望室だ。窓の外の景色のようにモニター一面に映し出された海中の光景を見て彼すぐには理解する。 アザディスタンで会ったカタロンの男たちは、彼の同行を諾とした。双子とはいえ確認する方法は何もなく、しかしある意味知りすぎている彼をこのまま放置することも出来ず、監視の意味もあったかもしれない。それが分かっていても、彼には隠すものなどなかったから気にはしなかった。また、男たちも仲間の兄弟という彼を既に気に掛けてしまっていた。 男たちは第一支部を活動拠点とし、中東の各国に潜伏しその街の状況を報告していた。 彼らは第三支部の放棄と支部長クラウスの無事を彼にも知らせてくれた。移転の作業にソレスタルビーイングが協力をしているらしいということも。 アザディスタンの被害状況を彼も共に見て回った。しかしその途中、彼は呼び寄せられた。 紫色の髪を少し俯けた後姿。ティエリア・アーデがそこに立っている。 (ああ、あの二人には悪いことをしてしまった) それはいつものことだったが、別れも告げることなく消えた彼に気の良さそうな二人の男は驚き心配をしたかもしれない。あるいは同じ顔をした新手のスパイだったのではと憤っているかもしれない。 彼にはどうすることも出来ない、呼ばれてしまったのだ。 しかしそこが最も来たかった場所であることは言うまでもない。ソレスタルビーイングの母艦『プトレマイオス』の中だろう。 パイロットスーツではなく制服を着たティエリアの後ろ姿。 今がいつか彼はまだ把握できていないが、きっとカタロンの救援も無事終わっているのだろうと、彼は思う。 ティエリアが不意につぶやいた言葉に、ふと意識を戻す。それが誰かの名前だと思ったが彼には分らない。 その背中には何か重いものが乗っているように見えた。 かつて同じようにこの背中を見たことがある。その記憶を彼は取り戻している。 「イノベーター、計画を遂行する者…」 計画、という言葉に彼はつい笑いそうになる。 ヴェーダへのアクセス権を、イオリア・シュヘンベルグの計画の遂行するものとしての自負をティエリアは失っている。彼の知る限り、そしてこの様子を見る限りそれはティエリアの手に戻ってはいないのだろう。 (相変わらず悩んでいやがる) 生真面目なところは変わっていない。しかし以前よりもその困惑の表情は顕わになっているように彼には見えた。 ティエリアには人と少し違うところがあると、彼は思っていた。しかし、その表情は人間のもの以外何ものでもない。 その状態を彼は悪くないと思う。敢えて一つ懸念するなら、彼があの赤いガンダムの存在を知ったら。 彼の家族を奪った自爆テロ。それを引き起こしたKPSAという組織のリーダー『アリー・アル・サーシェス』が生きている可能性。 自分の死と、その瞬間対峙していた存在を知っていたら。 「だとすれば、自分の進むべき道は…」 「そうやって自分を型にはめるなよ」 思わず声が漏れた、直後はっとしたようにティエリアが目を開く。 そこに写った男が真っ直ぐにティエリアを見ている。彼も息をのむ。 『四の五の言わずにやればいいんだ、』 モニターに映った男が言う。4年前の自分。 (これはティエリアの記憶だ) その記憶に引かれるように、思わず発した声が届いてしまったのかもしれない。 振り向いたティエリアがこちらを見ている。モニターに彼の姿はない。ティエリアの目に彼は映ってはいない。 「ロックオン…」 悲しげな小さな笑みをティエリアに作らせるのは彼のせいだ。 (何度でも悩めばいい、考えろ。お前はお前の意志で) 自分は過去にとらわれていた。優し表情が出来るようになったティエリアが、『仲間の仇討ち』の為などにとらわれては欲しくない。 ティエリアの枷にはなりたくない。 もちろんそれがティエリアの意思だとすれば彼に止める術はない。 儚げな笑みに痛む胸を押さえ、彼はティエリアが展望室を出るまで静かに見つめた。 その後ほんの短い間だったが、彼はプトレマイオスの中を歩き回った。 カタロンの二人が知っていた情報は少なかったが、一般に情報が出てこないアロウズの蛮行や、カタロンの動向、恐らくライルの諜報活動として知らされているソレスタルビーイングの動きが少なからず知れた。 カタロンが連邦政府に異議を唱えているように、ソレスタルビーイングの動きにも連邦政府直轄のアロウズに的を絞って動いている様子があること。 聞いていて少し安心するものがあった。 ソレスタルビーイングは4年前とその方針をきっと少し変えているように思えたが、彼らが動いたことに理由があった。 艦の中は静かで、以前と構造が変わっていて少し彼は迷った。 あたりをつけてコンソールパネルを叩く、思いがけずそれは開く。そこに探していた人はいなかったが見たかったものがあった。 緑色のガンダム。 格納方法が変わったのだろう、無骨なデザインのガンダムと並んでいる。二機はかつて彼の乗った『デュナメス』とティエリアの乗った『ヴァーチェ』に似ている。 緑色の機体に近づいて彼は笑った、至る所につけられたシールドらしき形の装甲とライフル。 (こいつも狙撃型かよ) きっとライルが乗っている機体。デュナメスの後継機なのだろう。 中にはハロを据える台座もあるかもしれない、スコープシステムは変わったのだろうか、彼は思った。 しかし、銃に触れられない自分がガンダムに触れられなかったら、そう思うとキャットウォークを歩いていた足は止まる。 ガンダムは各機のマイスターの生体認識により起動する。 ライルのそれが登録されているであろうこの機体を双子とはいえ自分が動かすことは当然出来ないだろう。しかし触れることすらできなかったらそれはとても悲しい気がした。 しばし感慨と共にその姿を目に焼き付け彼は格納庫を出た。 出来れば仲間の元気な姿を見たかった、自分の姿が見えなかったとしても。 「アアア…アアア…アアア…」 耳に馴染んだ機械音声が聞こえる。 俄かに近づくその音に振り返ると、誰もいなかった通路にハロが道を折れて姿を現した。 のんびりと反対側に転がっていくハロが回り、回り、止まった。羽を開きひっくり返った姿でこちらに顔を向けている。LEDがチカチカと点滅した。 「ハロ」 再び羽を閉じ、転がる。彼に向って。 「ハロ…」 「ロックオン、ロックオン」 偶然だろうか、しかし彼は旧友と抱き合うように、転がってきたハロを抱え上げた。 彼に気付かない人々のように、ハロが彼に気付いていなかったらと想像した鉄塊のような重みはなく、ハロは彼の腕の中で羽を動かした。 「ハロっ」 「ロックオン、ロックオン」 気持ちいつもの機械音声が弾んだように聞こえる。 「みんな元気か?」 「元気、ハロ、元気」 「そっか…なぁライルは?元気かな」 「ライル、ロックオン、ライル、ロックオン」 首を傾げるように体を揺らすハロに彼は苦笑いを浮かべる。 同じ顔で混乱しているのかも知れない。 「ごめんなハロ」 (俺、ひどいこと聞いたな) 「ロックオン、元気?ロックオン、元気?」 気遣わしげな声に問いに彼は明るく笑う。相棒は相変わらず恐ろしいAIだ。 「元気だよ」 くるりとまわったハロが彼の手からするりと飛び出す。 「ハロ?」 跳ねたハロがパタパタと羽を動かしゆっくりと手に戻ってくる。 その時背後から聞こえた足音に、彼は振り向く。 銀色の長い髪の女性がこちらを見ている。ティエリアが着ていた制服らしきものは着ていない。 (誰だ?) 彼女ははっきりと彼の目を見た、そして小さく会釈をした。 「ストラトスさん、で宜しかったでしょうか」 「あ、ああ」 間違いなく彼を見ている。確認するような声で聞いてきた。 (『ストラトスさん』?) 「助けて頂いてありがとうございました。きちんとお礼を言えていなかったので」 もう一度深々と彼女は腰を折った。 話がよく見えない。恐らくライルが何かしらで彼女の窮地を救ったのだろうが。 しかしその呼び方に引っ掛かりを覚える。ライルはソレスタルビーイングで彼と同じコードネームを使っているようだ。 同じ顔で同じ声で、同じ名前を名乗る。 (あいつは何を背負い込んでるんだよ) 目の前にいる女性に何と言っていいか分からず困惑に思わず目が泳ぐ。 しかし彼を助けるように、彼女のポケットから電子音がした。 簡易型と思われる携帯端末。 「すみません、アレルヤが呼んでいるみたいなので失礼します」 彼女は踵を返した。 (アレルヤ?) 「ちょっとっ」 拘束されたアレルヤの姿が頭に浮かび、思わず引きとめた。 しかし足を止め振り向いてくれた人にやはり続く言葉が出てこない。 「あ…あいつ元気かな?」 間抜けな問いだった。 ライルなら知っていて当然の情報だと思い、彼は聞いてから内心焦ってしまう。 「はい。一緒に助けて頂いて、本当にありがとうございました」 彼女は気にせず返事をしてくれた。 アレルヤは無事。ハロを抱く腕につい力が籠る。 「そっか…あと一つごめん。聞いたかもしれないけど、君の名前もう一度聞いて言いかな?」 見知らぬ街を歩いていた。 プトレマイオスの中でイアンに呼ばれたらしいハロに別れを告げてしばらくして、また彼は別の場所に来てしまっていた。 出来れば、情勢の変動の激しい中東の地に行きたかった。 銀髪の女性は微笑んで言った。 『マリー・パーファシーと言います』 タクラマカン砂漠へ飛ばされる前、彼の声が紡いだ名前『マリー』は彼女だろう。 アレルやは拘束の身から脱し、ソレスタルビーイングにいる。 彼の元気な姿を見ることは出来なかったがアレルヤには支えてくれる人がいる、それが彼には嬉しかった。 街中で得られる情報ではやはりソレスタルビーイングやカタロン、アロウズの動静は殆ど分からなかった。 しかし、ほんの噂程度に聞こえてくるものがあった。 ソレスタルビーイングは再び姿を消した。それは宇宙に上がったのかもしれない。 それから、中東のスイールとリチエラの街が破壊されたということ。反政府勢力による大規模テロとも、衛星兵器による攻撃とも言われている。 彼が目の当たりにしたアザディスタンへの襲撃の情報もテロという形で発表がされている。 それに伴い、中東の解体、再生の計画という発表が出た。 消えない内紛の火種を消すために、極端な考えをすればそれは一つの手段かもしれない。 しかしそれが一方的で、連邦政府の都合ばかり追い求めた考えだ。 今、ほんの噂程度でも自分の耳に入ってきたように、それは人々にも少しずつ聞こえ始めている。 アロウズの動きに呼応するようにソレスタルビーイングが動く、その戦いの火花が大きくなることは歓迎出来ることではないけれど、それが少しずつ人の目に触れるきっかけとなっているのかもしれない。 情報統制がされている中でも、全ての人の目も耳も口も塞ぐことは出来ない。 カタロンの構成員に元軍人が多いという話を聞いたことがあった。 彼らの行為の全てを肯定することはもちろんできない、しかし異議を唱える者たちにはそれだけの理由があるのだ。 彼らは世界を見ている。同じように、平和な街にいる人々の中にも、違和感に気が付き、考える人がいる。 彼は鳥のさえずりを聞いた。 目の前に広がる緑の大地に広く高い空を見た。 乾いた土地や、人の多い都市にいること多かった彼は、その平和で穏やかな自然の風景に、思わずここが天国かとぼんやり思った。 それを否定するように聞こえたエンジン音に彼は振り返る。 もちろんそこは天国などではなく、巨大な金属の塊が彼の背後に迫っていた。 白と青を基調にしたそれは、彼の記憶にあるものといささか形は異なるがプトレマイオスだった。 ここは中東ではないだろう。しかしもう一度来ることが出来た。 ゆるゆると光学迷彩のホログラムのような輝きがその上部を覆っている。その下に人影を見つけ彼は駆けよる。 ひどい破損が目についた。カレルが何台も取り付いている。 その下で端末に目をやる女性の後ろ姿に彼は見覚えがない。しかしティエリアと同じような制服に身を包んで補修作業に従事しているということはソレスタルビーイングのメンバーだろう。 「リターナーさん。ストラトスさんを見ませんでしたか?」 明るい女性の声が上の方から聞こえた。 呼び掛けられた女性が顔を上げるのにつられて彼も顔を上げる。 若いというより幼いとさえ思える少女が明るい笑みで声を上げている。大きく開いた破損箇所からは全身が見えた。スカートを穿いているが、ジャケットの形は制服と同じようだ。 彼女は外にいる女性のすぐ近くまで歩み寄っていた彼に気が付いた様子はない。 「見てないわ。携帯には?」 「反応がありませんです!」 ふくれっ面を作った少女に彼女は小さく笑う。 「たまに散歩しているみたい。もし見かけたら声を掛けるわね」 「お願いしますです!」 元気に少女は言いすぐに去って行った。 手に持った端末に視線を落とした彼女はふと彼の方を振り向く。 「ライル。居たなら声を掛けてよ、あなたを呼んでたのよ?」 当然のように自分に声を掛けた彼女はとても親しげな笑みを見せた。 (ライル?) 彼女には彼が見えている。 「ああ、すまない」 彼は慌てて言った。 気が付いてほしいと思っても、実際に知らない相手に対しどうしたらいいのか分からない。 ましてやソレスタルビーイングのメンバーであれば、本来彼がここにいないことを知っている可能性が高いのだ。 「ねえ、その格好どうしたの?」 言われてハッとする。 彼は特に変哲のない格好をしているが、きっとライルは彼女たちのような制服を着ているはずだった。 「ランドリーに突っ込んでるんだ」 ひどい誤魔化し方だった。 「やだ、全部?」 彼女は笑った。 彼はほっと胸を撫で下ろした。 「呼ばれてたんだよな、もう行くよ」 「ええ、たぶんケルディムのことだと思うから、イアンさんの方に行った方が良いわ」 「了解」 彼は視線を外した彼女から逃げるように近くの木陰に身を潜めた。 上がれるものならトレミーに上がって中の様子を見たかったが、形の違う機体のどこが開口部かすぐには分からないだろう。 彼は辺りを見渡した。 壊れたプトレマイオス。ソレスタルビーイングは宇宙に上がったと噂されていたが、今地上にある。 何があったのか分からない、けれど補修をしている彼女たちの顔はそれほど暗くはない。きっと大丈夫なのだろうと彼はたかを括るしか出来ない。 見渡す限りの平和な景色の中に彼は小さく動くものを見つけた。 高台の緑の中に溶け込むようなジャケットの色。 彼は誘われるように一歩を踏み出し、すぐに駆けだした。 彼をライルと間違えた彼女がその姿を見たら変に思うかもしれない。しかしそんなことを考えている余裕はなかった。 歩みを止め、石の上に腰かけていた後ろ姿。 柔らかそうな茶色の髪。アレルヤと同じくらいの背格好。彼はそれを知っている。 僅かに声が聞こえた。誰かと話をしている。その声を彼は知っている。 端末を切ったらしい所作を見る。歩を緩めた彼はそっとその背に近づく。気配を感じたようにその背が緊張したように一瞬止まる。 (気が付いた?) 彼は足音を潜めずに歩を詰めた。その存在と、敵意がないことを示すように。そしてほんの数メートル手前で彼は止まる。 「ライル」 呼び掛けた声は空気を震わせた。 確かに揺れた肩に、飛びつく様に振り返りかけた半身に腕を回す。 「え、うわっ」 重力に引かれるまま、傾いだ二つの体が草の上に倒れる。 危ないと思って彼は咄嗟に相手の体を引き寄せた。庇うように打ち付けた背は受け身も取れず、胸にぶつかった重みに肺がつぶれたように体が痛む。 「っ、ライル」 息が詰まった、それでも呼んだ。 嬉しい誤算だった。 彼の死を疑わない人間に彼は大抵気が付かれなかった。もしかするとライルは他の誰かが来るかと思っていたのかも知れない。 「兄さん?」 腕を地面に突っぱねて、ライルが飛び起きる。 「え、兄さん?」 ぽかんとした顔が彼を見下ろしている。 その顔が嬉しくて彼は笑う。 「久しぶりだなライル」 腕を引っ掴まれて体を起こされる。 「本当に兄さん?死んだんじゃないのか?なんだよこれ、夢?」 呆然とした顔が、泣きそうな、驚いた、それから責めるように歪む。 当たり前だ。彼は死んで、きっとここに来たライルはそれを仲間から聞かされている。 化けて出たのかと言われれば、彼自身そんな気はなかったが、そうかもしれないと可能性を伝えることしか出来ない。 「うん、これは夢だな」 だからそう思ってくれればいいと思った。 「夢じゃない、俺はこんな昼間から目え開けて夢なんて見ない」 怒った顔を見て、彼は笑った。 「じゃあ目を閉じろ。これは夢だから」 ぐいと彼の体を押す。草の上に転がしたライルの横に座って、泣きそうなのか腕で顔を覆ってしまうライルの髪を彼はそっと撫でる。 ライルと彼は恐ろしく似ていた。 10年以上会っていないのに、双子とはいえこの歳でこんなに似ているのはきっと珍しいだろう。 「少し話していいかな」 ライルは無言だった 彼は聞いた、本当にカタロンのメンバーなのか、いつソレスタルビーイングと接触したのか、刹那が声を掛けたのか。 ジーン1とロックオン・ストラトス二つのコードネームを持っているのか。 乗っているのは緑色の狙撃型のガンダムなのか、今もハロがサポートとして乗っているのか。 『ライル』と彼を呼んだ菫色の髪の人は大事な人なのか。 時折からかい交じりになったそれに、ライルはずっと頷いていた。 刹那の名前を出した時、ライルは一瞬反応をしなかった。すぐに開いた口で、あいつは今迷子なんだと小さく言った。 彼は不確かな自分の存在についても短く話した。気が付いたらまた地球にいて、この世界を見て歩いたこと。しかし留まることは出来ず、全てを見ることもできないことも。 特に説明のつかないことは話せなかった。一度失われた記憶のこと、みどりのゆびのこと、なぜかクラウスに会ったこと。 「兄さん」 「何だよ」 腕の隙間から恐る恐るという風にライルは顔を出す。 「兄さんの仇の名を知ってる」 硬い声だった。 「アリー・アル・サーシェス、生きてるな」 「知ってるのか?」 驚きにライルの目が見開く。 「アザディスタンが襲撃されただろ。そこで目撃したって噂を聞いたんだよ」 静かに彼は言う。 その男が気にならないと言えば嘘になる。しかし一方で、彼はもうその男と係わることはないと分かっている。 「俺は、仇討ちなんて考えていない」 「うん」 はっきりとした口調に彼は小さく微笑む。 「俺がここにいるのは、未来の為だよ」 (それでいい) カタロンの一員として、そしてソレスタルビーイングのガンダムマイスターとして、ライルは危険な場所にいる。 しかしそれはライルの意思で、彼なりの方法で世界と向き合っている。彼よりももっとずっとライルは世界を変えたいという思いが強いのだろう。 彼は家族の仇を討たないと前に進めないと思った。ライルが同じように思っていないことはむしろ彼を安堵させる。 ライルは自分の為に未来を作れる。 彼に作れなかったもの、一抹の寂しさを感じながら彼は土にそっと指を押し当てた。 話しながら、指を押し上げる感触にそっと指を離す。芽吹いたそれはするすると真っ直ぐに伸びる。 細いがしっかりした瑞々しい細い茎に不格好の少し大きな黄色い蕾が一つつき、開いた花を見て彼は笑う。 涼しい気候のこの場所にこの時期咲くとは思えない花。座っている彼の肩程の高さになった小さな向日葵。 「ライル」 「何だよ」 ぷつりとその茎を手折る。 胸の中で風がそよぐように何かがざわりと揺れる。不快感というわけではない。 ただ誰かが呼んでいるような気配がする。 「キスしてやるから目を閉じろよ」 「やめろよ恥ずかしい」 照れるというより呆れたという顔を向けられ、起き上がろうとするのを制して花を挟んで右の手を重ね、髪を梳いた手を瞼に重ねる。 (さよならは言わないよ) 「またな、ライル」 額に唇を寄せ、彼は静かに目を閉じる。 再び、力強いというふうに引き寄せられた。 刹那の声がすると思った。遠くで『ニール?』と呼ぶ声がした。 夕暮れの更に曇天の空の下、寂れた乾いた町に彼はいた。 彼が首を巡らす前に、小さな足音が彼を振り向かせる。 子供が走っている。小さな手に銃を持ったその子供の顔にどこか見覚えがあり、背を追った視線の先に見覚えのある子供を見つける。 (刹那) 彼と同じように子供に気がついた刹那が、幼い背中を追う。 ああ、これは刹那の夢だ。 彼がその家に近づくと声が聞こえ、刹那が一人で出てきた。 苦々しい表情で、手には銃。そして刹那は彼の目の前で止まる、驚き見開かれた目は彼の方を見ていない。 刹那に自分は見えていない。 分かっていても寂しさを感じる。しかし視線を追い、その先に立つ男の姿に体が強張る。 『過去によって変えられるものは今の自分の気持ちだけだ、』 パイロットスーツに身を包んだ、片目の男が真っ直ぐに刹那を見返して言う。 4年前の自分。 背後で銃声が鳴る。いつの間にか刹那の手に銃はなく、振り向いた先、家の中からあの子供が出てくる。小さな手に銃を握り。 変わらない、意志の強そうな真っ直ぐの瞳。 息を呑む。 変えられない。悲しい始まりの記憶。 変えたいと、刹那は必死にその背を追い銃を奪った。 しかし過去は変えることは出来ない。 自分の家族を撃った刹那も、彼の家族を巻き込んだ自爆テロも、たくさんの人の大事な人を奪ったロックオン・ストラトスも。 不意に遠くで歌が聞こえる。 目の前が暗くなる。変われなかった4年前の自分がそこにいる。それももう見えない。 闇がすべてを包む一瞬前に彼はクルジスの土を触る。 すぐ近くで、明るい子供の声がした。顔を向けようとし彼は気がつく。 右目が見えない。 自らの顔にそっと手を伸ばすと、指の先が眼帯に触れる。 傷を負った右目の焼けるような痛みも、それを気に病むティエリアの声も彼はもっと前に思い出していた。 彼は思い出した、青い地球、真っ直ぐに自分に向ってくる青い光。4年前に、残された左の目が見た最期の輝き。 刹那の夢、記憶の地に花が咲いたのだろう。 「お兄ちゃん起きた」 子供たちの声に彼は顔を上げる。 部屋の隅に置かれたベッドの上で刹那がゆっくりと体を起こす。黒髪の女性がそれを支える。 アザディスタンの皇女、マリナ・イスマイール。彼もその女性を知っていた。 子供たちが、部屋の入り口を通り過ぎていく、そこに立つ彼に気付かず。 「刹那」 迷子の刹那はこんなところにいた。傷を負った細い体。顔色が悪い。心配になる、しかしライルに届いたその声は刹那に届かない。 何もできない、係われない、及ぼせない。とうに分かっていること、しかし何度でも思うこと。 彼は自ら選んで、こうなった。それでも、選んで別れを告げた世界を見ることが出来た。それを後悔はしない。 生きて痛みを持ち、変わりたいと強く願う刹那の姿を彼は見た。 (あいつらは生きこの世界を変える) その横に生きて、刹那を支えられる手を持っている人がいる。 それは彼ではない。 男の声がした、二人の男が彼のいる通路に入ってきて、道を折れ背を向ける、すぐに近くにある扉へと入っていった。 二人の話の中に知った名を聞く。 「クラウス」 彼の友人などではなかったが、悪い男ではなかった。 ここはカタロンの基地なのだろうか、それならクラウスがいてもおかしくない。 そしてカタロンがソレスタルビーイングと接触したのなら、刹那がこの場所で保護されていることも理解できる。 (もし俺が見えたら) 彼は思った。自分はライルではないと伝えよう。あの時助けられたと。同じ顔をしていたから、引き寄せてもらえたんじゃないかと。 男たちの後を追ってみる。扉の手前あと数歩というところ、落ちている塊を見つけ彼の足は止まる。 屈み、手を伸ばしかけ、もう一度止まる。彼は気がつく。それは彼の失くした皮手袋の右。 止まった手を下ろし、拾い上げる。 形も大きさも同じ手袋。使い込まれ、馴染んだ皮の感触は紛れもなく彼の手袋だった。 クラウスは知らないと言った。 しかし今、カタロンの基地であるこの場所にそれがある。 (もし俺が見えたら、やっぱり持ってたんじゃないかと聞いてやろう) 彼は思った。 きっとこの扉は開かないのだろう。 ここにいるかは分からない、けれどクラウスにもきっともう自分は見えない。 クラウスの驚いた顔を想像し、それを見るのは悪くない気分だと思った。 見つけた手袋の右を嵌めると、やはりそれは彼の手をぴたりと包みそして馴染んだ。 その手を扉に伸ばす。 予想に反し、勢いよくそれは開き、彼は思わず転がるように中に入った。 つんのめった足元の先、思わぬ明るさに彼は驚き顔を上げる。 開かれた窓から陽光が注ぐ、この部屋を知っている。 しかし今は多くのものが排除されている。 以前見た時にはあったカーテンが、書棚が今はない。テーブルセットの置かれていた部屋の中心には、今は焦げ茶色の一脚の椅子が置かれている。 窓の前に男が立っている。いつかのように細い背をしゃんと伸ばし窓の外を見ている。 地下にあるカタロンの施設にこんな部屋はない。部屋に入って行った男達の背はもっと高い。 男が振り返る。 彼はその男を知っている。懐かしいような気持ちに目を細める。 しかしその目は、真っ直ぐに部屋の壁を見ている。男には彼が見えていない。 手袋に包まれた自分の手、最期の姿を取り戻し自分。 今、この場所にいること。 (俺は全てを思い出したのか) これはイオリア・シュヘンベルグの記憶、或いは夢。 自分はまた引き寄せられたのだ。 「ソレスタルビーイング、ガンダムマイスター…」 あの声明がこれから行われる。 「私は託す。未来の君たちに」 男の託したものを男の思ったようには彼は扱わなかった。男の望んだ未来を、彼は作れなかった。 彼の望んだ未来を彼は作れなかった。 彼はみどりのゆびを持って、地を歩き、世界に触れ、もう一度人生を見、それからその先まで見てきた、しかし二度と自分や仲間の為に引き鉄を引くことは許されなかった。 その手は全てを取り戻した。だから彼はもうこの先を見れない。 頬を撫でる風の心地よさに静かに目を閉じる。 彼の手にもう花は要らない。彼は願う、変わる世界に平和の花が咲くことを。 彼は知っている、生者に手向ける花の名を。 |