01 叔父と甥の話








 言われるまで気にしたことはなかった。
「侘助がお前のばあちゃんの息子なら、あいつはお前の叔父さんになるんだよな。それってつまり、お前のじいさん娘がお前を生んだ歳に自分の子供作ったってこととイコールだよな」
 小学校は違って、中学から同じ学校になったその級友は神妙な顔で俺に言った。神妙な中にいくらかの好奇心が混じっていたけれど、俺はそんなことどうでも良かった。
 短縮授業の午後に控えた部活に向け、俺たちは持参した弁当を食べていた。
 侘助と自分の関係、続柄を俺はそれまで理解を誤ったことはなかったけれど(出会った頃はしばらく子供らしく首を傾げるばかりだったが)じいさんにのことを気にした友人に言葉に俺は驚いた。
 俺は自分では考えたこともなかったことに気がついた友人に驚いた。それから口の中にあったおにぎりの欠片を咀嚼する。
 驚いたけれど、空腹から口にいっぱいに齧りついていたから声がでなかった。
 ただそれだけのことだけれど、俺の反応がないことに友人の顔からみるみる色が消えていくのが分かった。宙に浮いた箸を下ろすことも出来ず俺の様子を伺っている、俺はそんな顔をこれまでにも見たことがある。
「ああ、じいさんすごい」
 ごくりと飲み込んで俺は言った。
「そ、そうだよなぁ」
 俺の返事に安堵の顔を見せ、友人は再び箸を弁当箱に突っ込んだ。
 別に気を悪くするようなことは何もないのに、大抵そんな話をする奴は言ってからしまったという顔をする。数秒で後悔をするようなことならしなければいいのに。
 しかしそんなこともどうだって良かった。
 俺はむしろ友人のそんな発見に関心しているくらいだ。

 蚊取り線香の細い煙を縁側に見つけた。
 ランニングのシャツの背をこちらに向けて侘助が座っている。向かいには将棋盤。
 侘助は頭が良すぎてお愛想で年寄りを相手にするばかりで、俺と将棋や碁を打ったりはしない。一人で棋譜を並べるのが面白いのかはよく分からないがよほどつまらなくもない限りは一緒にやりたいとも思わない、侘助は強い。
「侘助」
 畳の小さく軋む音に気がついていても、あいつは名を呼ばれるまで大抵は振り向かない。
 それでも、声を掛ければ心底面倒くさそうに侘助はこちらを向いた。
 将棋盤を挟んで俺は向かいに座る。
 対戦者の有無を問わず、侘助の向かいの将棋盤の前には必ず座布団があった。
 たぶん無遠慮に駒に触れない限りは、ここに誰が座っても侘助の不興は買わないと俺は思っている。
「俺今日すごい驚いたことがあるんだ」
 駒から指を離さず、侘助はこちらに視線だけ向けている。
「俺とお前が同い歳ってことは、じいさんってじいさんだったはずなのに、すげー元気だったんだよ。男としては何かそれすげーなって」
「は?」
「まぁおばあちゃんには悪いけど、じいさんになっても枯れてないなって思ったら、何かすごいじいさん格好いいなって、」
 一瞬ボケっとした侘助の顔がすぐに強張っていって、途中で不意にあいつは指に持っていた香車を俺に投げた。
 薄っぺらいランニングの胸にあたったそれは角がチクリと痛んで俺は言葉を切った。
「痛いな」
 胡坐の真ん中に落ちた香車を拾い上げ、盤の端に置く。俺たちが生まれるもっと前から家にあるはずの将棋の盤と駒。たぶん最近一番これと親しいのは侘助だ。将棋だけはおばあちゃんよりじいさんの方が強かった「らしい」と聞いたことがある。
 侘助は怒っている。
「俺、じいさん格好いいなって思ったんだけど、お前は思わないか?」
 俺は別に怒らせようと思って言ってるわけじゃない。
「お前馬鹿だろ」
「馬鹿かもしれないけど、俺は関心したんだよ」
 落っこちそうな駒をぶんどる様に侘助は自分の手に戻した。
「お前の母さんとばあちゃんが聞いたら、泣くかはっ倒されるぞ」
「だからお前に言ってんだろ、男じゃなきゃ意味がない」
 当たり前のことを言うなんて侘助らしくもない。
「それでも、『ばあちゃんに悪い』くらい思ったんならお前が言う言葉じゃねえだろうが」
「『けど、格好いい』んだ。おばあちゃんの孫の俺はここにいて、じいちゃんの子供のお前もここにいるのは事実なんだし、俺たちは同い年だし。ていうか何でお前そんなに怒ってんだよ?」
 直方体のようなしっかりとした厚みのある盤を侘助は叩いた、僅かに跳ねた銀の駒が転がって庭に落ちる。
「お前がまるで『じいさんへたこいたけど』とでも能天気に言い出しそうな言い方に腹が立ってんだよ」
 落ちた駒を目で追う。
 しかし『へたこいた』という侘助の言葉が俺はおかしくて思わず顔を戻してしまった。
 頭の良いやつは語彙が豊富すぎて思いもよらない。
「そんなこと思ってない」
 俺は笑いながら庭に降りた。
 勢いは着いていなかったからそう遠くに転がってはいないはずだが、足もとは真っ暗で、裸足の足にも手にも駒の角は掠めもしない。
「俺がお前のじいさんがへたこいてうっかり出来ちまった不潔な女のガキだって分かってんのか」
 頭の上から降ってきた声に、俺は顔を上げる。
「お前何言ってんだ」
 部屋の明かりが逆光になり、影絵のように侘助の形を作っている。
 侘助は妾の子だと人は言う。それは事実だが、侘助は侘助のお父さんとお母さんの子供だ。
 そのお父さんはイコール俺のじいさんではあるが、俺にとってあいつはどっちかといえば栄おばあちゃんの侘助だ。
「お前の言う元気有り余ってる格好いいじいちゃんにうっかり気を許しちゃって、へたこいて出来た結果が、俺」
「ふざけるな」
 俺は立ち上がりざま侘助のランニングの胸倉を掴んだ。
「自分の親をそんな風に言うな。お前のお母さんはじいさんが年甲斐もなく好きにならずにいられないくらいのイイ女で、その人が望んだから今ここにいるのが侘助ってガキなんだよ。頭良いくせに、んなことも分かんないのか」
「は…はぁ?」
 侘助はまたボケっとした顔になった。それを確認してあいつを縁側に倒して俺はもう一度駒を探し始めた。
 妾の子だと、侘助に言うやつがいる。それを俺は知っている。それが事実でもそれで侘助が蔑まれる理由を俺は理解が出来ないし、納得したくもない。
 まさか俺がそんなことを思ってじいさんの話をしたとでも思っているのならこいつの勘違いは甚だしい。
「お前そんな風に思ってんの?」
「そうだよ、だから年甲斐なかろうがじいさんすげー、俺たちそのガキと孫ってうける」
 さっきから何度言わせるんだろう。
 そんなすごいじいさんと俺とお前はうっかり血を分けちゃってるという。こんなおもしろい発見を(そもそもは友人の発見だけれど)侘助以外の誰に言えと言うのだろう。
 同い年で年頃で、叔父と甥という感覚は悪いがあんまりないけど、家族で友達。
「お前がそんな下世話なこと考えてるとは思わなかった」
「俺もお前がそんな繊細だとは思わな、」
 縁側の外に伸ばした侘助の足が俺の頭を蹴る。
「痛いな」
「俺はもっと痛い」
 蹴っ飛ばす頭を探すようにぶらぶらと動くつま先を、縁のへりに押し上げる。
「何が」
「何でもねぇ。さっさと俺の銀を探せ馬鹿野郎」
 頭の良いやつの思考回路はよく分からない。ただ、銀の駒が見つからなければあいつは泣くんじゃないかと思って俺はもう一度地面に手を着いた。