02 向かない男








 小磯健二が唸っている。
 自分の指の先を見つめ、それから佐久間の方をチラりと見て。
 何を思案しているのか、佐久間にはその表情の意味がさっぱり読めない。
 ただ恐らく、経験から言って、健二の脳内で巡らされているものは佐久間にとってあまり面白くないことなのだ。

 上田から送られてきた丸のキャベツの消費に佐久間は健二に呼ばれた。
 大学に入ってから、すぐに一人暮らしを始めた健二の料理の腕前は丸3年経った今でもあてにならない。
 佐久間はキッチンにある、僅かの調理器具と調味料を思い出しながら、途中スーパーによって買い物をし、健二の部屋を訪ねた。
『もやしと…ウインナーと卵はあるよ』と言った健二の部屋の冷蔵庫には、言葉通り野菜はもやししか入っていなかった。
 冷蔵庫事情は予想の範囲内の出来ごと、しかし送られたキャベツが段ボールにいっぱいという状況は佐久間にも予想外だった。
「…持って帰るから、お前も実家に持ってけ」
 佐久間が手伝ってどうなるとも思えないみずみずしいキャベツの山に、佐久間は冷静に促し、健二は神妙な顔で頷いた。
 ともかく1つくらいは消費しようと佐久間は内心の目標を立て、美しい緑色の、球体としてはいびつなそれを一つ取った。
 大学に入って、佐久間も一人暮らしを始めた。料理は特別得意ということもなかったが、それなりにはやる。正直食費にお金を掛けたくないというのが一番の本音でもあったが。
 作るのは鍋と、野菜炒めと、後で食べられる用にポトフ。切って煮るか炒めるか、難しいことはやらないのが佐久間のルールだ。
 買ってきたのは鍋の「素」とニラと家にちょうどなかった玉ねぎ。家からコンソメとジャガイモとニンジンを持ってきた。
 キャベツの4分の1を鍋に、4分の1を野菜炒めに、半分をポトフに。
 意外なことに健二の部屋には土鍋がある。佐久間は健二が買ったとは思っていない。この部屋に上がり込む権利を持っている今かいつかの彼の恋人だろうと思い、それが『今』とはあまり考えられないので、『どの』とは考えないようにしている。
 聞いたら応えるのかと思いつつも、結局聞かぬまま、佐久間は無言で既に3回以上この鍋を使っている。
 メニューを伝えると健二は迷いなく棚から土鍋を取り出してきた。ものを出して洗うこと、それから鍋の見張りが健二の役目だった。
 炒め物に4分の1のキャベツは多すぎた。それでも、鍋は順調に煮え、淡々とおいしい夕御飯は完成した。
 テレビを正面にして、小さなテーブルに並んで座る。
 二人とも黙々と箸を動かす。クイズ番組の回答に時々先回りしながら、しかし概ね無言で。
「佐久間って料理うまいよね」
 空になった自分の器を再び満たし、思い出したように健二は言った。
 キャベツたっぷりの鍋、ニラとモヤシも入れてもつ鍋にした。肉だって下処理してあれば煮るだけでいい。特別上手というわけではない、しかしちょっとどうかと思うくらいビールが美味いなと思い佐久間は頷いた。
 健二は料理などからきしなのに、意外とモテる。細いくせに割と良く食べるところとか、素直においしいと言うところがたぶんいいのだと佐久間は思う。
(そんで作っちゃう俺も俺だよな)
 それからただの醤油に塩コショウの炒め物が、火加減がばっちりで、おだてられようが、佐久間は気分が良かった。
 しばらくしてアラームが鳴って。弱火で煮込んでいたポトフの鍋の火を止める。蓋を開ければコンソメの豊かな香りが熱い湯気と共に食欲を刺激する。しかし鍋と野菜炒めで限界の量だ。
 佐久間はテーブルに戻り、健二の隣に座ろうとして、見上げる健二と目が合う。
「なんだよ」
 言いながら、腰を落ち着ける。
「ねぇ、佐久間って女の子にも料理作ってあげるの?」
 言葉尻に健二は首を傾げる。
「…なんで」
 質問の意図が読めない。
 理系の研究者らしく、興味のないことには徹底的に無頓着な健二らしくもない質問だ。
 健二よりも食べることにも女の子にも関心も誠実さも持っているという自負がある佐久間としては不可解とも言える。
「気になったから?」
「質問に疑問形で返すな」
「いや、質問に質問で返したのは佐久間じゃん」
 へらへらとした笑い顔で、健二は言う。
(暖簾に腕押し、糠に釘…)
 その上、言い出したら意外と頑固に引かない、まして付き合いの長い佐久間には遠慮もない。
 どうしたものかと佐久間は思い、ビールに口をつける。
 料理は自炊が殆どで、確かに女の子のウケも気にしないことはないけど、別にその為に覚えた訳では決してない。彼女にも特に機会がないので作ってあげたことはそういえばない。
(でも、このおさんどんの百倍は有意義かもな。)
 ぼんやりと考えながら、ともかく答えるのは構わないけれど、意図が分からず答えるのは気持ちが悪い。
「…で、なんで」
 振り向いた佐久間の視界に、いつの間にか伸びてきた手の先が飛び込む。
「佐久間、泡」
 避ける間もなく健二の指が佐久間の唇の端に触れた。
「泡」
 泡、ビールの泡。すぐに消える。
 佐久間は手の甲で、ぐいと自分の唇を拭う。人見知りで、人との接触が不得手な健二は、慣れた人間に対しては、色々なことに許容範囲が広がるけれど、健二自身の距離の取り方はあまり進歩しない。
 健二は、触れた指の先を見つめ、それから佐久間をちらりと見た。そして「うーん」と首を捻っている。
 伺うような顔を見た時は、ろくでもないことを考えているからだ、と佐久間は決めつけている。
「なんだよお前は」
 気を取り直して聞く。面白くないことでも、人の顔を見てそんな顔をされるのは気分が悪い。分からないことも。
「うーん、料理してる佐久間がね?ちょっと格好良かったんだよ」
「はぁ?」
 思い掛けない言葉に声が少し裏返った。
「料理してる時のね、背中かな」
 照れたように健二は言った。ろくでもないには違いないけれど、褒められるとは思っていなかった。しかし料理を褒められるより、そんな言葉は正直面映ゆくて、居心地が悪い。
「女の子が見たらたぶん佐久間のこと好きになっちゃうなって思って」
「あっそ…」
 健二はテーブルの方を向き直って自分のビールに口をつけた。自分で言った言葉の恥ずかしさにようやく気付いたかと佐久間は健二の横顔を一瞬睨む。
「何か、料理覚えよっかなって思ったり」
 再び箸を取った健二が言う。
「向いてない」
「えー、かなぁ?」
(向いてない)
 誰かの為に、健二が珍しくそんな風に思うのは悪くない。しかしそんな姿が佐久間には想像出来ない。
 もう人種的に、そういうものだとしか言いようがないくらい、向いてるとは思えないのだ。
「ていうか、お前より佳主馬に仕込んだ方が100倍速い」
 食生活も、良識もセンスも、健二の何倍もマシそうな年下の男の顔を思い出して、佐久間は言う。
「え、仕込むって何か、ヤラシイ響き」
「アホ」
 ずれてる、なんて思いながら笑って佐久間は健二の頭を小突いた。

「そういえば」
 蛇口を捻って水を止めながら健二は振り向いた。
 鍋をさらって、二人は片づけを始めた。皿洗いは作るのに殆ど役立たずだった健二の役目で、佐久間はテーブルを拭いて、座布団の位置を戻した。
「まだ何かあんのかよ」
 洗い終わった手を拭きながら、少し困ったような顔で健二は笑う。そして自らの口の端を指した。
「うん。あのね、さっき唇柔らかくてびっくりした」
(やっぱり、ろくでもないこと考えてやがった。)
 泡を拭かれた時の妙な間の正体。
「そういうことは言うな、思うな」
 睨む佐久間に健二は笑った。
「だよねぇ」