03 息も止まる








 暗い四角い部屋の、一辺が明るい。
 佳主馬は目を覚ました。天井に出来たグラデーションを追い掛けるように明るい方に体を向ける。
 明りの元はデスクスタンド。光の中、逆光になった背中が一つ。
 背中という形をつくる外側の線がチラチラと眩しくて、佳主馬は目を細め、裸の肩をシーツに押し付け小さく溜息をついた。
 勤勉な恋人は、真夜中まで机に齧りついている。
 眠る恋人を起こさないように気遣うことより、ほんの少し前まで夢中になっていた恋人を放って数字の世界に夢中になることをやめてほしい。
 ただ隣で、眠っていてくれればいいのにと佳主馬は思う。
 冷めた肌の温度よりも、冷たいものが胸の奥に広がっていく。
 そっと毛布を被り、ベッドを降りて背中に近づく。衣擦れも、軋むベッドも、足音も、どれも健二の耳には届かない。
 もしそれが届いて気付かないふりをしているなら、それがちょっとした恋人のいたずら心からきてればいい、でもそんなこときっとない。
 少し後ろから、机に齧りつくその横顔を覗き見る。
 手元には見慣れたレポート用紙、読み方も分からない記号ばかりの数式の幾つも並ぶプリントが散乱していて、佳主馬には一体どの問題を解いているのかもちろん分からない。
 分からない寂しさには慣れた。ただ、まだ何か時々はそれが数式以外のものであったらどんなにかましだろうと思う。
 淡い期待はいつも裏切られている。
 数式を書き連ねる、手の動きに合わせて僅かに体が揺れる。ぱちりと瞬きの動きに合わせて、睫毛とその影が動く。しかし薄く開いた唇はぴくりとも動かず呼吸をしてないように見える。
 数式と向き合っている健二の顔はいつだって真剣で少し怖い。
 見慣れた怖い顔を、壊れた機械みたいだと佳主馬はぼんやり思う。
 自分になんて、本当はちっとも夢中になんてなっていないのかもしれない。
 息を乱すほど体を動かして、息が掛るほど唇を寄せて、息もつけないほどそれを合わせて、それなのにそんな瞬間はこの人にはなかったのではないかと思うほど、息をすることを忘れるほど夢中で数式を解いている。
 健二の好きな数式のことは分からない。どんなに慣れても、健二という人間が分からないことはいつまでも慣れない。
 佳主馬は溜息をついた。
 ペンを持つ手が止まる。音が届いてペンを止めた。健二は大きく息を吐いた。吐いた分だけ吸い込んで、ペンを置いた。
「ごめん起しちゃった?」
 健二は佳主馬を振り向いて言う。
 小さく首を振ると、健二がゆったりと微笑んで僅かに首を傾けた。
「ううん」
 声にすると、それは掠れて裏返って、子供みたいで佳主馬は眉を潜める。不安や寂しさが全て声に乗って、健二を優しい恋人にさせてしまう。
「ごめんね」
 空いてる佳主馬の右の手を、健二の左手がそっと取って引き、空いている右手で毛布ごと佳主馬の腰を抱き寄せる。
 佳主馬の腹に、毛布越しに頬を寄せる。
 掴まれた右の手を解いて健二の髪を梳く。見下ろす視線でも口元が笑っているのが分かる。
 甘える仕草で佳主馬を甘やかす、そのずるさに奥歯を噛みしめながら、健二の頭を抱き締める。僅かに汗のにおいがして、ベッドの中の健二を思い出す。溜息が熱くなる。
 空いた健二の左手が、いたずらに毛布の合わせに滑り込む、くすぐったさに笑いそうになった佳主馬の喉が、背中に触れた左手の冷たさに押し込められる。
「寝ててよかったのに」
 よくない。ちっともよくないことに、一生自分では気がつかない。
 ペンを止める溜息すら、優しい声で咎める人だ。