05 檸檬の指先








 僅かに軋む戸を開くと、くすんだカウベルがチリチリと小鳥のように鳴いた。
 12月の冷たい空気が嘘のように、柔らかに温められた空気が佐久間の頬を撫でる。
 新宿の少し大通りを離れた路地裏の、小さな喫茶店。
 待ち人は、4人掛けの席の奥に座っていて、佐久間が入ってきたことに気付いた様子はない。
 来客ににっこりと笑顔を向ける、恐らく佐久間の母親よりも年上と思われるオネエサンに小さく笑い返し、待ち合わせであることを告げ、カフェオレを頼んで店の奥に進む。
 待ち人は、小磯健二。高校の同級生で、つき合いも数えてみれば片手の指では足りないくらいの年数を重ねていた。
「よ」
 声を掛けると健二はちらっと顔を上げた。そして馴染みの顔を確認すると、すぐに視線を落とす。
「…ちょっと待ってて」
 佐久間が向かいの席に座ってから、健二が答えた。挨拶より何より、机の上に広げたレポート用紙の上の数字に顔を戻すことを優先する、それが佐久間が親友と言ってやぶさかではない男だ。もちろんそんな気恥ずかしい言葉を言ったことは一度もない。
 大した待ち合わせではない、この後に約束もバイトもない。小心とマイペースが同居する、親友のつむじをぼんやりと見つめていると、オネエサンがカフェオレを持ってきた。ふくよかしさが年齢を曖昧にしている手が、危なげなくカップを置き『ごゆっくり』とまたにっこりと笑い、カウンターに戻って行った。
 この店を見つけたのは健二だ。見つけたというより、足を止めた。
 夏のアスファルトがジリジリする大通りから、ビルの隙間の日陰を求め入った路地で、食品サンプルの緑色が鮮やかなメロンクリームソーダに、健二は足を止めた。
 どこでもいいから休みたかった二人は、昭和の香りの漂う喫茶店の戸を迷いなく押した。チリチリと小鳥のようにカウベルが鳴った。
 全く客足がないということもなく、しかし4人掛けのソファの席を大抵陣取れるこの店を、二人は待ち合わせによく使うようになった。
 ちょっと時間が出来ると、健二はレポート用紙を広げる。
 開いた携帯にも時々目をやっている。きっと画面には何かの問題が映し出されているのだろう。数学馬鹿ばかりの大学のゼミ仲間の中には、定期的にそんなものを送ってくるやつもいるらしい。
 レポート用紙はあっという間に数字で埋め尽くされていく。
 半分ほど減った紅茶のカップはレポート用紙に追いやられている。
『ちょっと』がどのくらいかは佐久間には見当もつかない。予想より美味かったコーヒーを、優しいミルクの甘みと混ぜ合わされたカフェオレにそっと口をつける。
 この店のコーヒーは美味い。日に焼けたメニューの『本格』の文字に偽りはなく、メロンクリームソーダのことなどすっかり忘れたように、初めてこの店に入ったその日、健二は迷いない声でアイスコーヒーを頼んだ。
 それから一度だってメロンクリームソーダを頼んだことはない。そもそも健二は甘いもがそれほど好きでもない。
 変な奴だ。と佐久間は思う。何度も思ってきた。これからもたぶん、いや絶対に思う。
 そんな変な奴のことを好きになってしまった変わり者を佐久間は知っている。
 変わり者は、池沢佳主馬。
 昨日の夜、佐久間は電話で佳主馬と話した。
『数学と僕とどっちが大事かって、女みたいなこと言いそうになってイライラする』
 話が雑談になり、何の話の途中だったか、佳主馬が言った。
 そもそも今年のクリスマスプレゼントで悩んで、煮詰まってやけくそで佐久間に連絡を寄越した佳主馬だ。十分乙女だよと、突っ込んでやりたいと思った。
 笑いを引っ込めて、佐久間は聞いた。健二のどの辺が良いのか。
 何だか前にも聞いた気がしないでもない、しかし同時に避けていたような気がしないでもない言葉が、弾みで口をついた。
『健二さんは、ムカつくけど…本当ムカつくけど、数式と向き合ってる時が一番格好良い』
 拗ねた声がおかしくて、堪えきれない忍び笑いを、佳主馬は耳聡く咎めた。
 笑いながら、予想に反してあっさり返ってきた惚気に、安堵と小さな寂しさを感じた。
 佳主馬の言葉に、認めたくはないけれど、佳主馬と健二の親しさを、彼らだけが共有する世界が少し寂しかった。
 キングを魅了する数学馬鹿。
 目の前でレポート用紙に齧りついている男、小磯健二。
 猫背で、傍から見るとまるで目の前のレポート用紙に吸い込まれるんじゃないかと思う。それを少し怖いと思ったことがある。
 自分には見れない世界をその数字の中に健二は見ている。
 ちょっと普段ののほほんとした顔からは想像がつかないくらい真剣な、男の顔をしている親友を、確かに佐久間も認めないでもない。
 あと、真剣に数式を解く、恐ろしいスピードで数字を書き続ける手の、薄っぺらでしかし筋や血管が可哀想なくらい浮き出た甲や、力の入りすぎて色味の変わった指先は、何だか悪くないんじゃないかと思う。
 湯気の上るカフェオレのカップを置く。
 健二の手が、一瞬止まる。ちょっとはもうすぐかもしれない。
 再び動きだした手は間もなく止まって、ペンを置いた。
「終わった?」
 佐久間の声に、目が覚めたように健二は顔を上げた。
「あ、うん」
 もう一度レポート用紙を見て、すぐに閉じた。
 ペンをペンケースにしまい、追いやられていた紅茶のカップを手元に寄せる。
 既に冷めたそれを一気に飲み干して細く息をついた。
 それから深く溜息を落とした。
 健二はぼんやりとした顔で、ソーサの端に乗った輪切りのレモンを半分ほど口に入れて、顔を顰めて出した。
「やっぱ酸っぱい」
 ソーサにレモンを戻し、滴ったレモンの果汁が健二の指を濡らしている。
「馬鹿」
 中指の先に生まれたしずくが落ちる前に、テーブルの端に置かれた紙ナプキンを1枚抜いて、佐久間は健二の手に押し付けた。
「あ、ごめん」
 へらと笑って手を拭う。
 不意に佳主馬の惚気話が思い出された。
『健二さんて、中指の側面にタコがあるんだ』
 力を入れてペンを持ちすぎるから、ペンダコがあるのだと、佳主馬は何でもないことのように言って、佐久間もふうんと聞き流した。
 この手のひらが、指が、小磯健二のもので、この手が佳主馬に触れる。
 手をつないでも、恋人つなぎでもそう気がつかない中指にできたタコの硬さを佳主馬は知っている。
 健二は、佳主馬と数学を天秤に掛けられない。そして、佳主馬がそれを仕方ないと許してくれることを健二は知っている。小磯健二とは意外と厚かましくてずるい男だ。
「ちょっと檸檬くさい」
 鼻に指を近づけ健二は笑う。
 罪を作る檸檬の指先。自分の想像に恥ずかしくなって佐久間はカフェオレに口をつけた。
「で、今日は何の集まり?」
 一息ついて、ちょっと頑張ってへらといつもの薄っぺらな笑みを作った。
 今日、佐久間を呼びだしたのは健二の方だ。
「ああうん。ちょっと相談があって」
 促せば健二は、少しだけ身を乗り出した。
「いや、来週のクリスマスさ、プレゼントどうし、」
「ああ俺、PS3の欲しいソフトがあるんだけど」
 言い終わらないうちに佐久間は言った。
「いや、佐久間の欲しいものは聞いてないんだけど」
 普通に冗談と受け取って、健二は笑う。
 健二の格好いいところと、ちょっとスケベな所を考えてしまった一瞬前の自分を殴ってやりたい。
「知ってる、自分で考えろ」
 急に投げ遣りになった声に健二は首を傾げている。その顔が憎たらしい。
 とりあえず、佳主馬はこの馬鹿にペラペラのレポート用紙でも段ボールいっぱいにでも送りつけてやればいいと、佐久間は思った。