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 バーナビーは急いでいた。彼にっしてはとても珍しいことに今バーナビーは『遅刻』をしているのだ。
 アポロンメディアの社員用駐車場で乗ってきた車を降り、長い脚を駆使して、顔だけは平静を装いつつも、ものすごいスピードでエレベーターホールに向かう。入り口の監視カメラが捕えた一瞬前の情報が既に入っていたのか、警備員の一人がエレベーターを待機させていて、バーナビーに気が付くと手招いた。
「ありがとうございます」
 飛び込んで振り向いたと同時に礼を言ったが、同じ瞬間にドアは無情に閉まる。声が届いたかは分からない。
 乗ってから気が付いたが、重役用のエレベーターである。もちろん緊急事態の可能性のあるヒーローは使用を許可されているが、外から普通の社員が押しても開かないというのは急いでいる今ありがたいと思った。
 フロアに着くと、気にするものはないので走り出す。短い距離だが、気持ちは焦るのだ。
「遅くなりました!」
 勢いよく飛び込んだのはもちろんヒーロー専用のロッカールームだ。
 中には既に虎徹とロイズの二人がいてバーナビーの到着に同時に振り向き安堵の顔を見せた。
「良かった! さ、早く着替えて。スーツはこれだから」
 上着を脱ぎつつ、タイだのチーフだのの早口の説明を聞く。じゃあ先に車回させてるから!と言い置いてロイズはすぐに出ていった。
 今日はこれからパーティがある。シュテルンビルト内の出版社合同で行われた広告賞の受賞パーティだ。協賛会社にマンスリーヒーローを扱うアポロンメディアの出版事業部が名を連ねており、授賞式への参加依頼があったのだ。
 この日はそれぞれ別の仕事が入っていた。パーティー会場がアポロンメディアからそう遠くなかった為、一度戻って合流をし授賞式用の衣装に着替えて向かう予定だったが、バーナビーの方は社への戻る帰りの道が渋滞をしてしまった。
 正確にはまだ完全な遅刻ではない。オープニングセレモニーには間に合わないが、授賞式自体の開始時間までは少し時間がある。更に言えばバーナビーがプレゼンターを務める賞の発表は後半にある。もちろん急がねばいけない事態は全く変わらないが。
 先に自身の仕事を終えていた虎徹は、既に準備万端だ。
 脱いだTシャツをベンチの上に置いた上着の上に投げる。皺になるのは困るがともかく急がなくてはいけない。
「ちょいと失礼」
 ベンチから立ち上がった虎徹がバーナビーの脇からロッカーに手を突っ込む、ハンガーを取り脱ぎ捨てられた服を丁寧に掛ける。
「あ、すみません」
「いいから、さっさと着替えな」
 虎徹は大雑把な性格だが、意外なほど服装には気を遣っている。それは格好だけではなく扱いもだ。
 シャツを羽織り、ボタンを留める。以前雑誌のインタビューで『ボタンの多い服が好き』と言ったことがあるが、バーナビーに用意される服はボタンの多い服が多い。このシャツにしても然り。本来一箇所の位置に若干小さめのボタンが二連でついているデザインだ。決して嫌いではないが、残念ながらこんな時は煩わしいというのが正直な感想だ。
 カーゴパンツを脱ぐと、伸びてきた手に引き取られ代わりにスラックスを渡される。
「すみません」
「いえいえ」
 屈んで足を通したスラックスを引き上げようとして、ふと目の前の虎徹の足に目が留まる。ウイングチップのラインが美しい。そして光沢が違う、良い靴だ。
 ぐいと引き上げ、前を留めながら、下から上まで正面からまじまじとその姿を見る。
 パーティの為、いつもよりドレッシーな装いだ。濃いグレーのスーツにはシルバーの光沢がある。白いシンプルなシャツに濃いグリーンの細いタイ。ポケットチーフまで入っている。バーナビーの物は明るいグレーの為、光の当たり具合によっては、ほぼシルバーに見える。
「なんだか虎徹さん、今日格好良くないですか?」
 ハンガーから視線を上げ虎徹はにやりと笑う。
「おいおい、俺はいつでも格好いいだろ?」
 虎徹のスーツ姿はバーナビーにとっては見慣れたものだ。しかし今日はいつもと違う。
「まあ、格好良いですよ。まるで大人の男みたいです」
「いやいや、どっからどー見ても大人の男だろ!」
 茶化して言えばふざけて乗ってくる。年齢的にはもちろん十分に大人だが、虎徹は実際子供みたいなところがある。バーナビーにとってそれは今では大抵好ましく思えるところだが。
「で、それ結局どうしたんですか?」
 バーナビーは自分の髪を指先で引き、虎徹の頭に目を向ける。
「おう、今日の撮影で付いてくれたメイクの子がな、これからパーティーって言ったらなんかはりきってやり始めた」
 もー、遊ばれたよ!と虎徹は笑う。しかし自分でも気に入っているのだろうその顔は嬉しそうだ。
 服装もパーティ用のドレッシーなスーツだが、髪型が特に違う。いつもはサイドの髪だけ後ろに流し他は好き放題跳ねているが、今日は全体を後ろに流していて、形の良い額が露わになっている。無造作に、という様子だが、ボリュームだとか髪の流れだとか毛先の跳ね具合だとかが絶妙で計算が尽くされている。タイを締めながらそれを確認する。濃い、こちらも光沢のあるグレーのシャツに淡いピンク色のタイだ。ダブルノットでという指示があった。長さに注意したがバランスが気に入らず、一度締め直して形になった。正直虎徹の姿が気になって集中できない。
「なかなかのセンスです。しかしそんなに格好良くされると妬けます」
「妬くな妬くな。バニーちゃんの格好良さには敵いませんて」
 虎徹の勘違いにバーナビーは薄らと笑う。妬けるのは格好よく改造してくれた相手だ。
 イメージが先行してあまり良さが伝わっていないが、虎徹の目見は決して悪くない。そして大抵は誰に対しても愛想が良くて人たらしだ。きっとメイキャップも間近に見たワイルドタイガーに驚いただろう、そしてわざわざ仕事以外の仕事をしたくなるくらいには気に掛ってしまったのだろう。
 しかしまあ、そのワイルドタイガーが、さらに格好良く仕上がった状態で並んで歩くのは自分なのだと思い溜飲を下げる。
 上着を残し、靴を履き替える為バーナビーはベンチに掛ける。用意されていたのはプレーントゥのブルーチャーだ。こちらも美しい。
 靴下を替え、靴を履き、紐をリボンにする。が、上手くいかない。首を傾げもう一度結び直す。しかしリボンは縦になる。
「どーした?」
 俯いたままのバーナビーを訝しく思ったのか虎徹が隣に座り覗きこむ。
 視線を感じながらももう一度、と思って紐を締めるが、手を離せばやはり縦結びだ。
「いえ…今日はどうしてか、うまく結べないんです」
「っ」
 バーナビーが応えると、一瞬の間を置いて虎徹はがばりと体を起こした。バーナビーも体を起こし振り返ってみれば、虎徹はベンチに片手をつき、俯き、口許を手で押さえ…肩は震えている。
「あの…笑ってますよね」
「ぶはっ」
 その様子に見当をつけて言えば、虎徹は手を離して笑い転げた。
「ひどいな。僕困ってるのに」
「だってバニーちゃん、あんな真剣な顔してんのに! ちょうちょ結び出来ないだけって!」
 ひーひー言いながら笑う虎徹にバーナビーの顔は曇る。不本意だ。
「いつもは出来ます」
 もちろん嘘ではない。バーナビーがいつも履いているお気に入りのブーツはレースアップだ、他の紐靴だってよく穿いている。もちろん撮影の時はスタイリストが行うが、子供でもあるまい、決して出来ないわけではないのだ。虎徹とて分かっているはずだ。しかしどうしてか目の前にあるバーナビーの靴の紐は縦結びになっている。
「よしよし、おじさんに貸してみなさい」
 言いながら、膝の裏に伸びた手が、ぐいと強い力で足を引っ張り上げる。
「う、わっ」
 当然のごとく傾いた自分の体をバーナビーは慌てて手をついて支える。
「危ないじゃないですか!」
「いやいや、さすがの反射神経だな」
 見向きもせず笑いながら、腿の上にバーナビーの左足を引っ張り上げ、靴に掛る。
「ほら出来た」
 すぐに戻ってきた足の先、靴紐は綺麗なリボンの形になっている。
「…」
 虎徹は少々偏りはあるが案外器用なところがある。バーナビーがなぜか出来なかったリボンが虎徹には出来た。
「…こっちもお願いします」
 少々腹が立ったが時間もないので、行儀悪く反対の足も組んで乗り上げる。
「出来るからやってみろよ」
「いつもは出来ますけどこれはうまくいかないんですよ。虎徹さん時間ないんでもうお願いします」
 言い方はともかく不機嫌を全面に尊大に言えば虎徹は笑った。
「だーめだって」
 縦結びの紐を解くだけ解いて、ぐいと両の足を引っ掴んで今度は床に下ろされる。
「バニーちゃん。次は絶対出来るから、もう一回だけやってみなさい」
 恨めしげな視線をやっても虎徹は首を横に振る。仕方なしにもう一度だけ靴紐を手に取り、いつもの様にそれを結ぶ。
「なんで…」
 きゅっと締めて離したリボンは今度はバーナビーの目の前で綺麗な形で横に広がっている。
「ほーら出来た」
 虎徹は満足そうに言ってベンチを立つと、バーナビーの上着を手に取りロッカーを締めた。
 バーナビーには意味が分からない。なんで出来ると言われて本当に出来たのか、ばかされたような気分だ。バーナビーも立ち、背に回った虎徹に促されるままに袖を通す。
「ねえ、虎徹さん何でですか?」
「バニーちゃんいつも結べてるでしょ? ちょうちょ結びなんて大体手癖でやってんだから、どうせ初めの交差がいつもと逆だったとかじゃないの? バニーちゃん横着してさっき最初のとこまで紐解かなかったし」
「あ」
 確かに。既に解いてしまったから本当にいつもと逆だったかは分からないが、足を入れ、特に緩くもきつくもなかったせいでそのままリボンを作ろうとした。結果何度やっても縦結びになった。
 肩の線を合わせ、前に回るとボタンを一つだけ締める。濃いピンクのチーフが差し込まれ、虎徹は一歩離れる。上から下まで、じっと見られ、バーナビーも視線を落とし自分の格好を見る。虎徹のスーツと似ているが、変形のモーニングコートといった体でこちらは腰が絞られ裾が長い。ドレスコードの問題はスルーされているが、華やかさが優先されているのだろう。
「ちょっと失礼」
 声に顔を上げれば、もう一度目の前に立った虎徹の手が不意に伸びる。
「っ」
 上着に入ってしまったらしい髪払われる。首に指の先が掠めくすぐったさに肩を竦めそうになる。
 虎徹はもう一度一歩離れ、顎に手をやりニヤリと笑う。不敵な笑いに、悔しいがやはり格好いいなと思った。
「よっしゃ、男前完成!」
 行くぞと身を翻した虎徹に思わず手が伸びる。しかし同時に携帯が鳴る。
「あ? バニー?」
 どうしたと目で問いながらも虎徹は携帯を耳に当てる。
「ロイズさん? ああすみません、丁度出来ましたんですぐ行きます」
 バーナビーも時計を見る。急いでいたはずが靴紐に苦戦している内に思いの外時間が経ってしまっていた。ロイズは二人が遅くて痺れを切らしたのだろう。目で行こうと虎徹は促すがバーナビーは動かない。
「おい、行くぞバニー。 え、聞いてますよ、はいはい大丈夫すぐ行きます!」
 一瞬携帯を離し小声で言う。顔が近付いて整髪料の香りがする。それすらもいつもと少し違ってどきりとしてしまう。
 電話の向こうでロイズが聞き咎めたのか顔が慌てている。その携帯をバーナビーは奪う。
「すみませんロイズさんあと1分」
『は? ちょっ、バーナビーく…』
 返事を聞かず通話を切って、携帯をポケットに差す。
「おいバニーちゃん」
「虎徹さんあと1分」
 言いざま腕を引く。突然のことに虎徹はバーナビーにぶつかる。甘えるように抱き締める。胸のチーフや綺麗に作ったタイが歪んだかもしれないが知気にしていられない。
「なに? どうしたよ?」
「なんか…虎徹さんが格好良くてムカつきました」
 半分は本当だが、半分は違う。あんまり格好良くて心配になったのだ。パーティに行くなんてとんでもない気がしてきてしまった。
「え、なにそれ! もー、お前さん怒られてよ!」
 虎徹が叫ぶ。もちろんバーナビーは怒られる気などない。虎徹が悪いのだから。