「誕生日何が欲しい?」 一瞬の沈黙を置いて僅かに開いた唇はしかしすぐに閉じて笑みの形に引かれた。 答えを予想して、虎徹の口には自然と苦笑いが浮かぶ。 ランチの時間だ。テイクアウトのベーグルのサンドを食べながらもバーナビーはパソコンに向かっている。 「バニー、昼飯時ぐらい休めよ」 サイドデスクに肘をつき、その横顔に虎徹は言う。手にはホットサンドがある。 「すみません。早く片付けてしまいたくて」 画面から目を離さず、バーナビーは言う。 朝から二人揃ってのデスクワークというのは最近では珍しいことだった。虎徹は溜め込んだ経費の清算を、バーナビーは雑誌や新聞社から依頼されているアンケートやら原稿にそれぞれ取り組んでいた。 忙しそうなバーナビーに、虎徹はランチを買ってくると言い、近くのカフェでテイクアウトを頼んだ。 レタスにオニオンにケッパー、たっぷりの野菜と厚切りのサーモンを挟んだベーグルと、チーズとハムにマヨ和えのキャベツの入ったホットサンドだ。最近になって思い立ってマヨ多めってできる?と聞いてみれば野菜もサービスしましょうかと気の良い店主は言ってきた。 齧るホットサンドは塩気が絶妙でとても美味い。バーナビーの食べるベーグルもまた然り。バーナビーにとっても馴染みの店で、美味いだろうと一々恩に着せたい訳ではないが、経理の女史も不在の為、事業部の中は二人きり。しかし一人はパソコンと向き合って片手間のランチだ。何だかもったいなくてそして寂しい。仕方なしに虎徹はハンサムな横顔を眺めながらまたサンドを齧っていた。 ふと、バーナビーの手が止まり、齧っていたベーグルを置く。手だけ彷徨わせコーヒーのカップを掴む。口に運び、傾け、置こうとした、その手を身を乗り出した虎徹が掴む。 「え?」 目を丸くしたバーナビーとようやく目が合う。 「危ないぞ」 虎徹は視線で示す。置こうとしたテーブルの先には先ほど置いたベーグルのサンドがあり、間違いなく倒すコースだ。 「すみません」 「いいけど」 素直に謝るが、コーヒーを安全な位置に置けば再びパソコンに向かってしまう。やはりつまらない。 「なあ、バニーそのサンド上手くない?」 横顔に向かって虎徹は喋り掛ける。 「おいしいです。何か…いつもよりボリュームがありませんか?」 「マヨ多めって言ってみたら野菜もサービスしてくれた。店長の時だけだけどな」 気付いたことが嬉しくて虎徹は自慢げに言う。 「へえ、今度僕も」 考える風にバーナビーの手が止まり、また動き出す。 「僕も言ってみましょうかね」 「おー、そうしてみろよ」 バーナビーは頷く。また、サンドを取り口に運ぶ。ボリュームがある分、しっかり口を開けないと入らない。真っ白な歯が一角を切り取り、もぐもぐと咀嚼する。音はしない。 「バニーって歯あ綺麗だよね」 「え? 普通ですよ」 ちらと視線が虎徹に向く。手も一瞬止まる。 「でもまあ、ヒーローなんで」 虎徹さんの歯も綺麗ですよ、あとなんか頑丈そう。口の端に笑みが浮かんで釣られるように虎徹も笑う。 「なあバニー、そろそろお前の誕生日だよな」 バーナビーはまたちらと視線を向ける。今度は手は動いたままだ。 「ええ、そうですね」 「今年はさ、誕生日何が欲しい?」 手が止まった。一瞬の沈黙を置いて、微笑む。 「何も」 予想通りの答えに虎徹は苦笑をする。予想通りだが、それは嘘だ。一瞬の間に、なにかを確実に飲み込んだ。 「何もないってこたないだろ? 言ってみろよ」 「じゃあとりあえず今黙ってもらっても良いですか?」 正直過ぎる返答に虎徹は笑う。 「それプレゼントじゃないし。それに邪魔してるって分かってんならそろそろ諦めろ。もう集中できてないだろ?」 なあなんかないのか? としつこく続ける。 バーナビーはふうと息を吐き、ようやく画面を閉じた。 「貴方には敵いませんね」 くるりと椅子を直角の位置まで回転させる。虎徹と向き合う位置だ。 「それに買ってきて頂いたのに失礼だった」 すみませんと言いながらバーナビーは苦笑いを浮かべる。ようやく二人のランチだ。 「で、バニーちゃん何が欲しい?」 重ねて問えばーナビーは首を傾げた。 もうすぐバーナビーの誕生日、構えと気を引く子供の手口で思いつくままに矢継ぎ早に言葉を繋いだが、この質問は予定していた質問だ。 「じゃあ何でもいいです」 何もがだめなら何でも。 「それがな…思いつかない」 虎徹も考えなかった訳ではない。 十月に入り、ああもうすぐバーナビーの誕生日だなと思い出した。去年はサプライズに失敗した。今年も何かしてやりたいが思いつかない。各女性誌では、次々とバーナビーの誕生日特集などを出していた。情けないような気がしつつも、参考までにと自分に言い訳をし、端から目を通してみたが、いまいちピンとこない。 インタビューのコメントに嘘はないのだろうが真実も少ない。ただ、求められる『バーナビー・ブルックス・Jr』をバーナビーは常に全うしている。虎徹にわかるのはそのことだけだ。しかし虎徹に限らず、それはある程度バーナビーを知っている人間なら大抵は分かることだ。 そして既に一週間を切ってしまい良いアイデアは浮かぶ気配がない。 一口齧りううと唸る。向かいのバーナビーも、また一口綺麗な歯がベーグルに齧りつく。咀嚼し、嚥下する。ざくりと切り取られるのはいっそ小気味良いと思える。しかしものを食べるという行為はどことなくエロいよな、と頭の片隅で余計なことが浮かんでくる。 「じゃあ虎徹さんが欲しいものってなんですか?」 「え?」 一連の動作を見ている内に聞きそびれ、きょとんとする。 「だから虎徹さんが欲しいものをくれたらいいじゃないですか」 そういうものでしょう。 「俺?」 『キスしたい』 反射的に思ったことに驚き、真っ直ぐ向く視線に居心地の悪さを覚えつい目が泳ぐ。しかしそれは聞かれているような、もとい本来自分が聞いていたような欲しいものではない、ただの衝動だ。 「欲しいものねえ」 つぶやき虎徹は頬を掻く。 「そう欲しいもの。だって、誕生日なんて祝いたい人の自己満足だってありますから。僕だってあなたの誕生日は僕の好きなようにしてみた」 数ヶ月前の虎徹の誕生日は、なんだかくすぐったくなるほどに甘いデートコースが組まれた。 妙に緊張した面持ちで『僕が祝いたいので一日付き合って下さい』と、このハンサムに言われて断れるやつがいたら虎徹は見てみたい。オフではなかったが、雑誌の特集かと思うようなエスコートぶりに、乗っかって見れば楽しい一日が過ごせた。 ないわけではないはずなのに、改めて聞かれると出てこない。質問をしていたはずが急に追い詰められているのが自分になっているのに、虎徹は首を傾げる。 「思いつかない…」 ふうとバーナビーは息を吐く。やれやれ、と顔が言っている。 「月並みですが、僕のことを考えて選んでくれるものなら何でも嬉しいですけど」 それでも欲しいものをやりたいと思う。自己満足と言ったバーナビーの言葉には全面的に同意するが、虎徹はさらにエゴだって発揮する。 「それが思いつかねーの。ほら、俺は頭の硬いオジサンだから!」 いつかの言葉を引っ張り出せば、まあ硬いですよね、としれと言い返す。 しばし考える様子を見せ、バーナビーはまたこちらを見る。 「ホントに何でも良いんですか?」 「おう」 「いえ、じゃあ全部」 「全部?」 意味が分からず鸚鵡返しに聞けば、意外なほど真摯な目とぶつかる。 「貴方を全部」 「そりゃあ…難しいな」 「そうでしょう」 虎徹が神妙な顔をすればバーナビーも神妙な顔で頷く。 「うーん」 全部、それは無理だ。考え得る全部を想像して虎徹は唸る。虎徹はバーナビーの自由にはならないし、バーナビーの為にだけ生きることは出来ない。例えばもし一つこれから生涯マヨネーズを食べるなと頼まれても情けない話、虎徹には叶えてやれる自信があまりない。 「虎徹さん。『何でも』なんて簡単に言うものじゃないですよ」 「俺が浅はかだった…でも気持ちはしてやりたいじゃないかよ」 唇を尖らせれば何がおかしいのかバーナビーは笑う。 「その気持ちだけで十分です、って…言っても納得しないんですよね?」 「おー」 どうしようかな、とつぶやきつつ、最後の一口を放り込む。もぐもぐと、口が動き、ごくんと飲み込む。上下した喉が真っ白で綺麗だなとやはり思う。 「では、二つあるので選んで下さい」 「おう」 できることなら数など問わない。しかし芝居がかった調子に合わせ虎徹もそれに乗る。 「一つ、貴方の指輪を僕に三分貸してくれるか、二つ、キスしてくれるか、どちでも良いです、今すぐに」 「今すぐ?」 バーナビーは頷く。 虎徹は視線を落として指輪を見る。薬指に嵌る結婚指輪だ。 何を思って貸して欲しいというのか、過不足なく読み取ることは虎徹には出来ない。先ほど飲み下されたものがこれなのかも分からない。 「それって俺が無駄にしたお前の三分てやつの話?」 「そうですね」 三分と言う言葉に思い出して言えば、バーナビーは頷く。 「それはつまり、指輪を貸す三分がバニーにとって有意義な時間て理解して良いんだよな」 確認するように聞けばバーナビーは黙った。 「…そう、なりますかね」 「よし分かった」 虎徹は勢いよく立ちあがり、バーナビーの方に屈んだ。首の後ろを掴み、ぐいと引き寄せる。 ぶつかる様に唇が当たれば、支えるようにバーナビーの手が虎徹の肩に沿う。 そして手探りに指輪を外し、空いている手にそれを押し込んだ。 唇が離れれば、呆然とするバーナビーが手のひらと虎徹を交互に見る。僅かに濡れた唇を見てやっぱり自分はキスがしたかったのだなと虎徹は思う。 虎徹は黙って椅子に掛け直す。ギイという音を立てて背もたれが軋む。 音に我に返ったのか、バーナビーが慌てたように手を突き出す。 「二つも要りません」 「キスは俺がしたかった」 腕を組んで受け取らない姿勢を見せる。 バーナビーはまるで途方に暮れたという体で立ちすくんだが、すぐに手のひらに視線を落とした。 時計は見なかった。見る必要がない。三分はバーナビーにとって必要な時間であればそれがイコール三分だ。 「お返しします」 しばらくして手を差し出される。 おうと返事をし、手のひらを差し出せば、指輪は虎徹の手に戻ってくる。 一瞬、嵌めてくれりゃいいのにと思ったが、それがいいことか分からないので言わず嵌め直す。 「ありがとうございます」 椅子に掛け直し、一つ息を吐きバーナビーは言う。 「これでいいのか?」 「ええ。一度触ってみたかったんです。…貴方の大事なものを僕に預けてくれたのが嬉しいです」 あんまり簡単に外すので驚きましたけど。と苦笑をする。 バーナビーの言う通り、指輪は大事なものだ、他に代わるものは何もない。それを慮ってくれるバーナビーの気持ちが嬉しい。 しかし、指輪以外にも大事なものが虎徹にはたくさんある。バーナビーもその一つだ。大事なもののどれもがそれぞれに一番で、順位をつけることも同じ位置に並列することも虎徹には出来ない。 指輪を貸すことは出来る。三分と言わず恐らく一日くらいなら。それ以上長いと少し寂しいかもしれないが、案外気にならないかもしれないとも思う。考えたこともないので分からない。ただ外す時に感じた喪失感は一瞬で、戻ってきた時の違和感も一瞬だった。 「ありがとうございます」 バーナビーは本当に嬉しそうに言った。はにかむような笑みが可愛いと思った。 「良いプレゼントになりました」 続いた言葉に虎徹はあ、と思う。 「どういたしまして、と言いたいところだがな」 「なんですか?」 「借りを返しただけなんだろ? それってプレゼントじゃなくない? だったら後は俺の好きに祝っていいってことだよな」 にやりと笑えばバーナビーは一瞬呆けて、そして笑いだした。 「だから初めからそうしたらいいって言ってるじゃないですか!」 言い分はもっともだ。しかし嬉しさとは別に、物足りなさを感じたのは本当だ。何も思い浮かんではいないが月並みのお祝いも寛容するというバーナビーを信じてベタベタのデートコースでも考えようと虎徹は思う。いっそ雑誌のルートそのままでもいい。 おかしい振り出しに戻ったなと惚ければ、バーナビーは噴き出し眼鏡を外した。 笑いすぎて涙が滲んでいるのがおかしかった。 |