風が頬撫でた。 振り向くと陽光が白いカーテンに吸い込まれ形を成している。小さな風に揺れる。 窓の前には男がいた。背を向け、窓の外を眺めている。 石の柱のすぐ横には重厚な書棚がある。誂えられた、テーブルセットと同じ濃い焦げ茶色が暖かな色をしている。 部屋を切り取った窓が明るく輝いている。 彼の視線を感じたのか、男が振り返る。 痩せた、厳しい顔の老人だ。背筋が伸び、上等な服をしゃんと着、手袋を嵌めた手が杖を握っている。 男は片眼鏡を少し動かし目を細めると、意外なほど穏やかな顔になり、彼と目を合わせた。 「君は」 硬い静かな声だった。一瞬咎められているのかと彼は思った。 「どうしてだろう。君がここにきたのは」 男はまた、窺うような所作で窓の方に一度目をやった。 (ここはどこだ、この人は誰だ) 彼はぼんやりとそう思った。 ただ居心地は悪くない。静かで穏やかで温かくて、どこにも違和感がない。 男は突っ立っている彼に、もう一度穏やかな顔を向け、彼の方に歩を進めた。 途中彼を見ながら「おや?」と何かに気がついたように首を傾げる。 「君、ちょっと手を見せてくれ」 男が迎えるように差し出した手に、彼は黙って右手を出す。 革の手袋に包まれた手の手首をそっと掴むと「失礼」言い、手袋を引っ張った。 出てきた彼の白い手を検分するように目の前に持ち上げまじまじと見た。それから一人しきりに感心したように頷き「ありがとう」と彼の手に手袋を戻して手を放した。 「君の手は素晴らしいものを持っている。その、みどりのゆび」 再び嵌めようとした手袋を持つ手が止まる。 「緑?」 彼の手は白い。緑色でなくても、どこにもおかしな汚れもシミも見つからない。 「そう、その親指。素晴らしい資質だ。そのかわり一つの資質を失ってはいるが」 男の言っている言葉が頭に染み込まない。彼はぽかんと男を見る。 「君にはどうやらまだ道が続いているらしい。私は君を導くことはない。まぁこれまでも、大して何も出来なかったが」 一人、納得顔で男は話を続ける。 彼は話についていけないが、しかしどこか頭がぼんやりとしていて、それを問う言葉が出てこない。 「一つだけ、君に教えよう。君の名は『ロックオン・ストラトス』しかしそれは秘密だ」 聞いたことがあるような、ないような名前だ。 (俺の名前?) 自分はこの男を知らない。しかし男は彼を知っている。ロックオンと呼ばれた彼はそれを訝しむ。 ふと背後から、呼ばれたような感覚に彼は振り向く。そこにある部屋の戸は沈黙している。 (秘密?) 秘密とは何だ、疑問が口に上る前、また呼ばれたような気がして彼は振り向く。 「どうかしたのかい」 背で男が問う。 分からない。しかし彼は自分を呼ぶものが気にかかり戸に足を向ける。 くすんだ色の金属のノブに手をかける、薄く開いた戸が、直後風に圧されるように自ら開こうとする。 背後でバサリと音が立ったのに驚いて振り返る。風が抜け、窓でカーテンが激しくなびいている。 男はいつの間にか彼のすぐ後ろに立っている。にこと笑い片手を上げると、彼の肩をそっと押した。 不意のことに、部屋の外へと彼の足は踏み出す。 ぎぃと乾いた音を彼は知っている。 乾いた木の床の軋む音。 履いた革靴が乾いた木の床を歩いている。二歩踏み出して、目の前に迫った白いものに慌てて手をついて立ち止まる。 急な目眩に目を閉じる。 (平衡感覚がおかしい) 浅く息を吸って、深く吐いて今度は深く吸い込んだ。 そっと目を開く。そこには手をついた白い壁があり、頭上からの光が作り出す自らの影がある。 彼はゆっくりと体を起こし、体を反転させると、壁に背をつけてそこにしゃがんだ。 体の様子がどうもおかしい。空っぽのような、耐え難いような重さを感じるような。 (ここはどこだ) 目の前には木製の濃い焦げ茶色の戸がある。その両側に薄汚れた白い壁。天井には古めかしい形の照明が橙色の光を灯し並んでいる。背をついた側の壁には窓があった。覗こうと壁に手をつき重い体を持ちあげる。窓の向こうは紺の闇。 ガラスに男の顔が映っている。白い肌に茶色いウェーブの掛った髪。彼はそれを知っていると思った。 重い頭を動かして観察した。古いアパートの廊下に見える。しかしそれ以上の答えは見当たらない。 そして体の変調に抗えず、彼は再びしゃがみこみそっと目を閉じた。頭で見たばかりの景色を思い出す、焦げ茶色の戸、白い壁、照明の橙、夜の紺。 (夜?) その違和感に気がついた彼は、しかしそれを確かめるべく再び目を開く力はなく意識を手放した。 鳥のさえずりが聞こえる。 目を開けると、白い天井、顔を傾けるとそこには家の中の風景がある。 見慣れない景色に体を起こすと、視界の中でふと動くもの、椅子に掛けた男がこちらを向いている。 色の白い若い男だ。 「やっと目が覚めたな、朝ごはん食べるんだろう?」 男は親しげな笑みを浮かべ、当然のように聞いてきた。 「飯?」 寝起きの頭はうまく働かず、男の言葉を反芻した。 「昨日の夜、腹減った、って言っただろう?」 「夜?」 言葉に蘇る記憶に、思わず部屋の窓を見る。そこには白い朝の光がある。 彼は慌ててベッドを降りる、男がその様子を首を傾げながら見ていたが、それを介せず裸足のまま扉を開けた。 白い天井に並ぶ古い形の照明、窓の並ぶ白い壁。昨夜見たアパートの廊下。自分が開けたのは、昨日正面に見た焦げ茶色の扉だろう。 朝の光が窓から廊下にも差し込んでいる。 (朝?) 彼は思い出す。 自分は昼の明かりの差し込んだ重厚な造りの部屋にいた。そこで老いた男と向き合っていた。部屋の戸を開けた時、風に気を取られその先を見なかった。男に背を押され、踏み出した先…そう、踏み出した先にはこの廊下があった。そしてこの廊下には、夜の闇が落ちていた。 「おい、突然どうしたんだ?」 戸を開いたまま硬直した彼の背中に男が声をかける。 はっとして振り返ると、やはり男が親しげな笑みを浮かべこちらを見ている。 部屋の中にはベッドがあり、二人掛けの小さなダイニングテーブルがあり、小さなキッチンがあり、窓の下に小さな一人掛けのソファがある。同じ色の焦げ茶色の扉が二つあり、たぶんシャワールームか何かの部屋がある。 少々古いという以外に特別変哲のない部屋だった。 しかしそこは老人のいた部屋ではない。 ここがどこなのか、目の前の男は誰なのか。彼の思考は追い付かない。 「本当にどうしたんだ。おい、ライル?」 (ライル?) 動かない彼に、男が重ねて問う。 呼び掛けられた名前を自分は知らない。顔を顰めた彼を見やり、男は苦笑する。 「なんだ、そんな顔してもコードネームは呼ばないぞ」 『コードネーム』 その言葉になぜか体が強張る。 (俺の名前は『ロックオン・ストラトス』だろう) 老人はそう言った。 しかし名前は秘密だとも言った。秘密とはなんだ。そもそもあの老人は誰だ。 「ライル。私が作るから朝食にしよう」 男は、自分を当り前のように『ライル』と呼ぶ。老人は自分を『ロックオン』と言い、それが秘密だと言った。 ここはどこなのか、目の前の男は誰なのか、自分の名前は、自分は誰なのか。 (分からない) 彼は自分の中にぽっかりと出来ている空白に気がつき呆気にとられる。思わずというふうに、男に背を向ける。 その親しげな視線から逃げるように。 目の前には焦げ茶色の扉が、彼がそうした時のまま開かれてそこにある。 出よう、と思ったが足が動かない。 (出て、俺はどこに行くんだ) 空白に唐突に一つ不安が生まれた。 二つの名前で呼ばれる自分、コードネーム、第三の名の存在。自分は何者なのか。 「ライル。とりあえず戸を閉めてくれないか」 男の声は変わらず穏やかだ。彼は『自分』を、知っている。 彼は意を決し戸を閉めた。一瞬間を置いて、もう一度静かに開ける。少し期待をしたが扉の向こうは変わらない、同じ廊下が続いている。 彼は戸を閉めて振り返る。 男は安堵したようにこちらを見ている。 自分を案じ、自分に穏やかで親しげな視線を送る、自分を知っている男。 (俺は知らないけど) 彼は寝ていたベッドの前に戻る。 「ごめん、飯はいい」 「本当に?」 「ああ、もうちょっと寝てていいか?」 「それは構わないが、大丈夫か?突然来たと思ったらちょっと様子が変じゃないか?」 体が強張る。どうしていれば、男の言う『ライル』らしいのか自分は分からない。 「俺、昨日なんて言った?」 「部屋の前で寝こけてるから起こそうとしたら、『腹減った』って。でも全然目を開けないからちょっと心配したよ」 頭は混乱していて、自ら訴えた空腹は今は全く感じない。 「ごめん今は睡眠みたいで」 眠気はどこにもない。ただ、このまま男と話している余裕がない。 ぎこちなくも苦笑いを浮かべた彼に、男は安心したのか頷いた。 「分かったよ。私は食べたら出掛けるから、好きに使ってくれ」 人の良さそうな笑みに小さな罪悪感が生まれる。 しかし、自分にはどうしていいか分からないのだ。彼は黙って布団を被った。 (悪いけど『俺の友達』だったらちょっと助けろ) 男が部屋を出ていくまで、彼は背を向け沈黙していた。 背後から聞こえてくる音は生活の小さな音ばかりで、他にはほんの数分ラジオの音、それから外を走る車の音や、鳥のさえずり。 一度、電話が鳴った。途中男の声が大きくなった。 電話は短く話の内容は彼には分からず、訝しむ間もなかった。しかし通信を切った電子音の直後、低い衝突音が響いた。 恐らく男の拳が木の机を叩いたのだ。苛立ちをぶつけるように。 驚いて、体が強張りそうになるのを堪える。 そっと背後の様子を伺っていると、ぎっと床を軋ませ男は動いた。先ほどより慌ただしく部屋の中を歩き、ばさりと衣擦れの音を立て音が止まる。上着を羽織ったのかもしれない。 「ライル、寝てるかい?…じゃあ、行ってくるよ」 彼の返事がないのを確認して、男は部屋を出ていった。 外から鍵をかける音。小さく木の床の軋む音が続き、部屋は静まった。 静まって、すぐにも飛び出したい衝動を抑え、彼は男が戻ってこないであろうと思えるまでじっと沈黙を続けた。 それから、布団を出る。 まず、知ることが必要だった。 彼の思考は、正確に周りの状況を認識できた。身の周りにあるものの名前、それらの例えば機能や価値、それから男との会話を成立させた言語。 しかし分からないことが多すぎた。 (何より名前だ) 自分を示す二つの名、自分の存在が一番不確かで怖かった。 彼は腰を上げ、部屋の中を見渡す。 先ほど見たのとさして変わらない、小さな部屋の風景がある。男は今はいない。 テーブルの上に、紙の新聞とメモを見つける。 『AD.2309.Apr.21.』 新聞の見出しの脇にあるその数字に対して湧く違和感はないが感慨もない。 『出掛ける時は戸締まりを忘れず、鍵はスペアを持っているから、帰る時はそのまま預かっていてくれ』 「クラウス」 走り書きのメモ最後に綴られた名前。 『ライル』の友達。外見は若いコーカソイドの男。部屋の主。温厚そうな顔、声、言葉。 得た情報を反芻してみても、彼の記憶には何も引っ掛かってはこない。 しかし、今の自分からしてみると会ったばかりの男だが、ライルの友達で、温厚そうなあの男が苛立っていたことは何となく悲しく感じられる。 木の机を、そっと撫でる。 (叩いたって、クラウスの手が痛いだけだろう) 彼は溜息をつき、次の情報を求め部屋の中を見回した。 部屋はやはり小さく、物が少ない。家探ししても、ここはそもそも自分の家でもない。 何か分かるのかと、不安がよぎる。 つい俯いてしまう。しかしその視線の先に違和感を感じ彼は目をみはる。 木の机から芽が出ている。 その出現に彼は瞬きをし、目を擦って、思わず空を仰いだ。 (何だ?) 再び机に目を戻すと、ほんの一瞬の隙にそれは急激に伸び、葉を広げていた。 驚き後ずさる。椅子にぶつかり、がたりと音を立てる。 既に蕾が現れている。植物の成長を早回しの映像を見ているようだった。 花が、咲く。 『兄さん』 その瞬間、笑った少年の顔が脳裏をよぎる。 停止ボタンを押したように、花は静かに白い柔らかな花びらを広げて彼の前にある。 (何だこれ) そっと触れると小さく揺れ、確かにそこには花がある。 突然、何もないところから芽が出て花が咲き、何かが頭の中を掠めていった。 彼は部屋の中の扉の一つを開け、そこが洗面室と確認すると、見つけた鏡に飛びつく。 映ったその顔にやはり感慨はないが違和感もない。しかし『兄さん』と呼びかけた少年の顔には鏡に映る自分と同じ面影がある。 (弟?) 突拍子もない出来事に彼は困惑した。 鏡の中の顔にも紛れもなくそれが表れている。彼は目を閉じ少年の顔を、声を反芻し、記憶に植え付ける。 (俺の弟、弟かもしれない少年を俺は知ってるんだ) 目を開ける。 鏡の右、手をついた壁から再び芽が出ている。 彼は慌てて飛び退く。 芽はやはり早回しの映像のように成長していく、淡い桃色の蕾が解けるように開く。 音はなかった。青い空に浮かぶ雲が何かに切り裂かれるように散り、閃光が空を貫いていく、その光景が掠めていく。 もう一つついた蕾が、一瞬遅れて開く。 『了解、了解』 どこが楽しげな機械音声が頭に響く。 (俺は、これを知ってるんだ) 指で触れてみると、やはりそれは確かな感触を持ってそこにある。 夢ではない。 頭は混乱していたが、現実に目の前に花がある。 睨むようにそれを見つめる。壁についた白い自分の手、それが触れる緑色の茎。 彼は思い出す。 「みどりのゆび」 老人は自分の手を取ってそう言った。 (まさか) おとぎ話のような自分の想像を彼は笑おうとしたが、唇は戦慄くばかりで何も紡げない。 彼はゆっくり息を吐き、そっと、黄色い花の下の壁に親指を押し当てる。 撫ぜるように離したそこから一瞬の後すうと芽が出た。 壁を這うように今度は蔦が伸び、葉が広がり、小さな蕾が膨らみだす。 黄色の花がほころぶ。 そしてほころぶ度、頭の中を掠めていくものがある。 それはきっと自分の記憶だと彼は思った。花が咲く度、点々と思い出す。 信じられないことが起きている。けれど、それを認めなければならない。 自分の指が触れた場所から、芽が出、急速に成長をし、花が咲き、咲く度に恐らく自分は過去を思い出している。 思い出す為の可能性だと、自分を納得させるよう反芻し、彼は洗面室を出た。 木の机の上には白い花が時間が止まったように静かに咲いている。 (…でも、異様だ) 彼は背筋が寒くなる。 ここはクラウスの部屋で、このまま部屋中が花だらけになるのは問題だ。 物が少ない部屋で、唯一見つけた小さなナイフを茎に当てる。それを水を入れたコップに挿す。 机に張った根を取らなくてはとしっかりと掴む。 ふと、一瞬熱いような気がした指の下で、茎の根元も木目を這った根も消えていた。 彼は呆気に取られ、また深く息をついた。 この指は今彼の唯一の頼みの綱だったが、この指はあまりに現実味がない。 (野放しにしちゃいけない) 彼は、部屋の隅に掛けられたコートを見つけ、そのポケットを探る。 恐らく皺にならないように気を使ってクラウスが掛けてくれたもの。 大したものは出てこなかった。 元々何かが入っていたかも分からないが、しかし探しているものが足りない。皮手袋の右。 迂闊に花を咲かせないように、欲しかった手袋がない。 新たな問題に溜息をつく。 泳がせた視線の先、窓から緑が見えてそこに飛びつく。 このアパートからほど近く、公園らしきものがある。 彼は上着を羽織り部屋を出た。 公園は花が咲いても構わない場所かもしれない。 クラウスのメモの通り部屋に鍵を掛け、ポケットに入れる。 開けた扉の先には、同じ廊下があった、階段を降りはじめると、誰かが下から上がってくる音がする。 ぎくりと強張りそうになるのを叱咤し彼はぎこちなくも挨拶をした。 おそらくこのアパートの住人だろう、女性は見向きもしなかった。 違和感を感じつつも何事もなく通り過ぎ、彼はアパートを出る。 場所を忘れないように、何度も建物を振り返り、目印になりそうな店などを目で追った。 すぐに公園の入り口を見つけ中を回る。花壇がある、しかしそこには秩序がある。芝生の上には小さな野の花が咲いている。突然花が咲いて不自然でないと思える場所ではない、何が咲くかも分からない。 何より人が多く、自分の周りで突然花が咲きだしたらそれは異常なことだ。今は迂闊に手をつくこともできない。不安が大きすぎて彼はすぐに公園を出た。 ほんの数分前のことでも、道を間違えずにアパートに辿り着いたことに彼は安堵した。 見上げると建物は思いのほか高くやはりかなり古いと分かる。そしてその最上階に柵が掛けられているのを彼は見つける。 クラウスの部屋のある階を通り過ぎて、彼はアパートの最上階まで上がってきた。 扉の前の踊り場はひどくほこりっぽい。金属のノブを回すと、ぎいぎいという鈍い音を立てる。 枠についた細かな埃を散らしながら扉が開く。 屋上に人気はない。扉の様子からしても、人が近づいた気配もない。 彼は周囲を見渡した。 小さな街だ。高いビルは近くになく、この屋上を気にするような建物もない。 (ここだ) 彼は何度も周囲を見渡して、それからそっと指を地面に押し当てる。 間もなく現れた芽はまた生き生きと伸びていく。 祈るようにそれを見つめる。 茎の先端に付いた蕾が膨らみ、解ける。 手のひらに小さく温かい手の感触がふと伝わる。 (誰の手だ?) 知りたいと強く思い、彼はまた指を地面に押し当てる。 日が落ちるのと同時に彼はクラウスの部屋に戻った。 思い出すものはほんの一瞬のことで、繋がる部分も少なく断片的なものだった。 しかし半日かけて、屋上の半分を埋めた花の中で彼は知った。自分は『ライル』ではないと。 遠くの学校に行くため家を出ると、それをライルが自分に告げた日の記憶を思い出していた。小さな女の子が自分の横で泣いて、自分も泣きたいくらい寂しいと思ったこと。 泣いた女の子は自分の妹だと彼は思ったが名前はまだ思い出せず、彼は寂しい気持ちになった。 ライルは双子の弟だった。きっと似たまま自分たちは成長したのだと彼は思い、同じ顔をしているライルと間違えて、ライルの友人であろうクラウスは彼をライルと呼んだのだろう。 初めから、彼にはクラウスのことは思い出せるはずがなかったのだ。 ライルとしてクラウスの部屋に居座っていることに罪悪感を感じるが、まだ言い出せそうにもない。 自分の記憶は幼い頃の記憶ばかりで、最近のことがまだ殆ど思い出せていない。 そして名前も、今の自分が結局誰なのか、はっきりしないことが多すぎた。 しかし幾度となく、軌道エレベーターや宇宙、モビルスーツが彼の脳裏を過った。 彼は自分は軍に関係していたのかもしれないと思い始めていた。 しかし知るごとに疑問も増える。まだパズルのピースすら揃っていないような状態だ。幾つの花が咲けば、自分は今の自分に戻れるのか分からない。 彼は溜息をつく。 ガチャリと鍵の回る音に彼は我に返る。 振り向くのと同時に、開いた扉。 入ってきたクラウスは彼の姿を認めると小さく笑む。 「ただいま」 ライルの友達を騙していると思うと胸が痛い。 「おかえり」 しかし取り繕って彼は返事をした。 朝クラウスが掛けていた椅子に掛けている彼をよけて、クラウスはベッドの上に持っていた袋を適当に置く。 「そういえばライル、君仕事は大丈夫なのか?」 開いている椅子に上着を掛けながらクラウスが聞く。 「ああ、有給」 (たぶん仕事はライルがやってる) 弟の仕事は思い出せていない、しかしクラウスは気にした様子はない。 「商社って休み取りやすいのかな。あ、夕ご飯は食べたかい?」 言われて思い出す。食べていない、しかし空腹は感じていない。 この男にこれ以上迷惑を増やすのは彼の本意ではない。 「ああ、うん」 曖昧に頷く。 クラウスは部屋の鍵を机に置き、時計を外し、ポケットの中のものを出していく。 シャツのボタンを外し始める。シャワーを使うのだろう。 「クラウス、端末借りていいかな?」 置かれた携帯端末を指し示す。 部屋の中をざっと見て回っても大した情報は得られなかった。 「構わないけど…君、休みだからって家に置いてきたのかい?」 呆れたようにクラウスは笑う。 「あとライル、もし寝るならベッドにしてくれ、今日は運ばないからね」 「え、いやここで大丈夫だって」 居座る彼を気にした様子のないクラウスに安堵しつつも、あまりの鷹揚さに罪悪感が募る。 「客人に椅子で寝させるわけにはいかないよ」 言いながらクラウスは洗面所に入っていく。 その扉が閉まったことを確認して彼は端末を手に取る。 ベッドに場所を変え座り直し、親指を触れないように気をつけながら端末を開く。 手をついた左手が何かに触れかさりと音を立てる。 クラウスがベッドに何か置いていった。紙袋、そこから飛び出しもの。 銃だ。 クラウスがそんなものを持っているということに驚く。 それでも興味をひかれ思わず手を伸ばす。 しかし、すうと吸い込まれるように彼の手はそれを通り過ぎた。 硬い銃の感触はなく、指先に感じたのは柔らかな布の感触。 慌てて手を離す。 (何だ?) 銃の下から芽が生える。押しのけるような勢いで完全に袋から姿を出す。 もう一度手を伸ばした。しかし銃の感触はない。 彼の混乱を余所に、蔓は伸び葉が茂り花が咲く。 「ライル」 呼びかけの声に彼は体を強ばらせる。 ベッドの上には蔓バラが蔓延っている。銃を隠してしまう程に旺盛に咲いている。 (花が) この状況をどう説明すれば良いのか分からない。どんな顔でクラウスが自分を見ているのか分からない。 咲いたたくさんの花と、その数だけ思い出した記憶。 「ライル、体調でも悪いのか」 混乱しきった頭を小さな花畑に埋め、彼は顔を上げられない。 木の床を軋ませる音、クラウスが近づいてくる。 音が止まる。 ぎしりと硬いスプリングを軋ませ、クラウスはその花畑に腰を下ろす。 直後大きな手が包むように彼の髪を撫でる。 驚き、顔を上げた彼にクラウスは微笑む。 「どうした、傷がついてるぞ」 動いた拍子に彼の頬が棘に傷つけた。痛みは感じるが傷は浅くほんの表面に白い線を作っただけだろう。 しかし、無造作にベッドに手をついているクラウスを棘は傷つけている様子はない。 (違う) クラウスは花を認識していない。 花が爆風に叩きつけられた痛みを思い出させた。 花が壊れた建物と燃えさかる火を思い出させた。 花が両親と妹の名を叫んだあの声を思い出させた。 エイミー、彼のもういない妹の名前。 花がスコープ越しの緋色のモビルスーツを思い出させた。 花が自分の全てを包む閃光を思い出させた。 花が引き鉄の重さを思い出させた。 (俺はここにいない) AD.2309の世界に彼はいない。 花がたくさんの死の記憶を彼に思い出させた。 花がかつて銃を持った彼を思い出させた。 そして今、彼は銃に触れない。 うつ伏せた顔を棘が小さく切る、その傷も痛みも確かにそこにある。 どうしてここにいるのか、分からない。 天を突き刺すように伸びているもの、太陽光エレベーター。 タワーに沿って光が上っていくのを見て彼はアフリカタワーだと思った。 (どうしてあれがアフリカタワーだと知ってるんだ?) 問い掛けが意識を鮮明にする。 目を開くと椅子に一人の男が掛けている。彼はその男を知っている。 体を起こそうと手をつくと手に小さな痛みが走る。それから強い花の香り。ぐしゃぐしゃに丸まった上掛けに蔓が絡まっている。 夢ではない、何も。 ベッドの軋む音にクラウスが彼を振り返る。 「おはよう」 「おはよう」 彼は動揺を押し込め、『ライル』を装い返事をする。 穏やかな顔はすぐに正面に戻り、真剣な顔で開いた端末を見ている。 「どうかしたのか」 ベッドを降り、向かいのイスを引き寄せクラウスの横に並ぶようにして座る。 重い溜息。 「また、粒子散布地域が広がったんだ。…中東はもはや陸の孤島だよ」 クラウスの手元の端末を覗き込む。 「おかげで施設の整備も順調に進みだしているが…この状況は手放しでは喜べないな」 僅かに彼の方に向け傾けられた端末。これはつまりクラウスが『ライル』に見せて良い情報なのだろう。 地図の上に広がるで赤い点、その幾つかが点滅している。 画像が切り替わり砂漠の映像が映し出される。やぐらのような装置があちらこちらに立っている。先端で光るオレンジ色は温かみを感じるというより、炎のように見え不安を掻き立てる。 粒子とはこの光のことだろうか。 「ここは…」 「ルブアルハリ砂漠。第三支部のある」 (施設、第三支部。クラウスは何をやってる?) クラウスの白い指が端末の画面を動かす。 目まぐるしく動く画面を少し乗り出すようにして見つめる。指がつかないように気をつけて手を置く。 画面に映し出された何かのリスト、建設途中の倉庫のような広い空間の映像。彼は気がつく、銃や弾の種類、モビルスーツの型式、それから薬、医療機器の名前。 「カタロンはまだまだ大きくなるよ。共感してくれる人が増えるのは良い、しかしそれは世界が私たちの望んだようにはなっていっていないということだ」 端末の向こうに置かれた紙袋。あの中には銃が入っていることを彼は知っている。 当たり前のように『ライル』に話しかけるクラウスに自分は見えて触れている。しかし本当は自分がここにいないことを彼は知っている。 銃、モビルスーツ、粒子、中東、それから『カタロン』。 彼はその名前を知らない、思い出していないだけなのかも分からない。しかしクラウスとライルは知っている。 (ライル、お前何やってるんだ?) 「ヨーロッパ支部にもすぐに通達があるだろう。ライル、君も連絡がつくようにしておいた方がいい」 真っ直ぐに彼を見つめる男の目に確かな熱を見つけ彼は怯む。 思わず掴んだ机の端から小さな芽が現れる。 ※中編に続きます。 |