29








 出掛けるというクラウスを彼は見送った。
「俺もそろそろ帰るよ」
 クラウスは鍵を掛けるよう念を押して階段を降りていった。アパートから出て道を渡る姿を彼は窓から見送った。
 ラジオのチャンネルを適当に回し、ニュースを読んでいる局に合わせる。
 それを聞きながら部屋の中にあるものをまたしばらく見て回る。クラウス、ライル、カタロンどれに繋がりそうなものも出てはこない。
 彼は絡まった蔓を引き剥がし、机から伸びた茎を切りコップに挿す。
 上着を羽織り鍵を掛け、屋上に上がる。
 屋上の半分を埋めた花畑は昨日と変わらぬ姿でそこにある。絡まりきった蔓バラを花畑の上に置く。
 彼はすぐにでもライルに会いたかった。
 しかし彼はライルがどこにいるのか分からない。
 彼は黙々と花を咲かせる。
 花が開く度、記憶は一つ蘇る。形としてはまだおぼろげで彼は苛立ち始めていた。
 日が傾き始めても、彼はライルの所在を思い出さなかった。
 商社に勤めている。それは思い出した、クラウスの言葉にも出てきた。それを彼は誰からかもたらされた情報として知ったのだ。
 何という名前でどこにあるのか、それは思い出せない。
(クラウスが帰ってきちまうかな)
 帰るとは言ったが部屋に戻ればクラウスは彼を部屋に置いてくれるだろう。
 しかし、クラウスのことは知らない、だからこれ以上思い出しようもない。
 『ライル』は携帯端末を家に置いてきたことになっているが、もし誰かが連絡を取れば、彼がライルでないことはすぐに知られてしまうのだ。
 そして良く分からないが、カタロンというものの中で何か緊張するような物騒なことが起きている。
 限界だった。
   彼は屋上から降りアパートを出た。親指を握りしめるように手を握り、歩き出す。
 しかし行く場所はない。
 目についたのは昨日一度訪れた公園。夕方の公園に子供たちの姿はなく、静かだった。
 彼はベンチに掛け、誰かが置いていった新聞を取り、眺める。
 街灯の明かりでは読みにくく、目を酷使していると彼は思い、閉じた目に手を置く。自分の手は温かいと分かる。
(でも体は疲れたなんて感じてない、やっぱり俺の状態は普通じゃない)
 新聞がかさりと音を立てる。見ていたページに指を挟んだまま気を抜いていた。
 もう慣れてしまった芽吹きの感触がそこにある。
(早く思い出せ)

「こんなとこで寝てると風邪ひくよ?」
 子供の声がした。
 目を覆う自分の手を退かすと、小さな男の子が自分を覗き込んでいる。
「あ」
 目が合った瞬間、子供はにこりと笑う。
 彼は驚き目を見開く。突然声を掛けられたからではない、子供の向こうにある空の色、厚い雲の広がる灰色の空は夕暮れの色ではない。
 そこは公園などではない。
 緑の広がる墓地。その一角に置かれたベンチに彼は座っていた。
(アイルランド?)
 急に体を起こした彼に子供は首を傾げる。
「どうしたの?」
 子どもの声に彼は慌てて振り向く。
「あ…いや、何でもない。起こしてくれてありがとう」
 ぎこちなく笑い返した彼に、子供はまた笑顔を見せると元気よく去って行った。
 走っていく向こうに子どもの家族であろう何人かの大人が子供を待ってこちらを向いている。
 小さく会釈をして、彼は周囲に目を向ける。
 この場所を彼は知っている。彼の故郷、北アイルランド。しかし先ほどまで忘れていた場所だ。
 彼は歩き出した。それが早歩きになり、すぐに駆け足になる。
 息を切らすような勢いで、彼は一つの墓石の前に立った。
 彼の愛する家族の墓。
(父さん、母さん、エイミー…)
 昨夜思い出した別れの瞬間。10年以上も前の出来事でも思い出したばかりの記憶は昨日のことのように鮮やかに彼の胸を抉る。
 しかし墓石はいつからそこにあるのかと思うほど、その地に馴染みそこにある。握りしめた手が震える。
 彼は手向ける花を持たない。
 額ずくように膝をつき、石の前にそっと手をつく。祈るように撫ぜた芝の間から芽が出る。
 花が咲く度、名前を思い出せない何人もの笑った顔が掠めていく。
 明るい、楽しい、小さな、密やかな、少し寂しげな、優しい、年齢も性別も人種も違ういくつもの笑顔、それははっきりと彼の方を向いていた。恐らく友人、もしくは仲間と言えるような人達なのだろう、かつて彼を励ましたかもしれないもの。
 しかし今、思い出せない彼を慰めるには不十分だった。
 もの言わぬ墓石が花に囲まれていくのを見る。そこにない自分の名前を彼は思い出していた。
(ニール・ディランディ)
 しかし自分に笑いかけた誰も、その名前を呼ばない。
 その人たちのことを思い出したいと彼は思った。

 ライルを探そうと、彼は歩き出した。
 墓地から最も近い街までの道は思い出していた。
 歩きながら彼は考えた、クラウスのいた街の公園から、突然故郷の墓地に来てしまったこと。
 クラウスのアパートにいた時と似ている。あの時老人と会った部屋からアパートの廊下に出た。時間も昼から突然夜になった。
 故郷に来た時、夕方から昼になっていた。
 戻ってきた墓地のベンチの上に既に新聞はなかった。それは誰かが持っていってしまったのかもしれないが。
 もう一つ彼はある変化に気がつく。コートのポケットにそれまで入っていなかった財布があった。
 それは20歳の頃彼が持っていたものだ。
(記憶喪失、瞬間移動、次はタイムスリップか?)
 しかし通りすがった建物のガラスに映った自分の顔は変わってはいなかった。
 思い出した記憶を反芻しながら、時折地面に指を付けながら彼は歩き、2時間ほど掛けて街に着いた。
 彼は真っ直ぐに街の図書館に向かう。
 途切れ途切れの記憶の中で確実に時期の分かる彼の最も新しい記憶は2307年のものだった。
(人革連の記念式典があった日、俺はアフリカタワーの近くにいた)
 そこにいた理由は分からない。しかしいたと思える。
 2309年の今から、自分が燃え尽きたあの日がどれほど前のことなのか分からない。
 自分の記憶以外にも知らなくてはいけないことがあると思っていた。
 図書館には市民が自由に使える情報端末がある。
 彼は入り口の近くで新聞のラックを見かけ足を止める。
 紙で置かれているそれはその日この街で買える一般的な新聞だけだ。
 しかし日付がおかしい。
(5月?)
 彼は端から日付を見た。どの新聞にも同じ日付が入っている。それは当然のことだ。
 彼の記憶では昨日は4月21日だった。しかし新聞は1ヶ月近く先の日付を示している。
(違う。俺が普通じゃないんだ)
 しかし突き付けられる現実に目の前が暗くなる気がする。
 目を閉じるのが怖い。縋る様に、思わずラックに手をつく。自分を落ち着けるために深く息を吐く。
 顔を上げた彼は空いた席を見つけ、すぐに情報端末の画面を開く。
 昨日見た4月のニュースは間違いではない。しかし約1ヶ月の間にその情勢は変化していた。
 あの日見たものに偽りはない。
 それに彼は小さく安堵した。
 それから彼は左の指でゆっくりとキーを叩いた。

 閉館時間とともに彼は図書館を出た。
 行くあてはもちろんない。しかし直前まで見ていたたくさんの情報が頭の中をいっぱいにし軽い興奮状態にあり、その歩は緩まない。
 彼は閉館時間まで思いつく限りの言葉を打ち込み、その情報を見続けた。
(反政府組織『カタロン』、『地球連邦』、独立治安維持部隊『アロウズ』、『ソレスタルビーイング』、『ガンダム』)
 カタロンの情報は少なかった。しかしその活動に関連する情報から引き出されるものが幾つもある。アロウズ、中東、テロ。
 アロウズを組織する大元は『地球連邦』だ、しかし彼の知る世界に地球連邦はなかった、そしてその発足のある意味引き鉄になった組織はソレスタルビーイング。彼らの活動の始まりはガンダムというモビルスーツによる武力介入。その始まりの日始まりの地は人革連の電力送信10周年の記念式典の日、低軌道ステーション天柱、それからアフリカタワー”ラ・トゥール”。
 クラウスの言葉には一致するものがある。彼は間違いなくカタロンの組織の人間だ。
 そして彼の記憶に一致する場所。アフリカタワー。
 彼は一つの予測を立てていた。今は統一された三国家群の軍とソレスタルビーイングとの間で起こった、その戦いのどこかで自分は死んだのだと。
 足が止まる。晴れ始めた夜空から僅かの星が見える。爆発の一瞬前に見えたのは宇宙の闇だった。
 家族が巻き込まれたテロのことも調べた。その悲しみから自分はモビルスーツに乗ったのかもしれない。
 しかし今『ライル』がその憎むべきテロに加担をしている可能性がある。
 宇宙で死んだ自分が、今この場所にいる。これはチャンスなのかもしれない、彼は思った。
(ライル、俺はお前を止めたい)
 しかしライルの所在が分からない。彼は大通りを避け、ひたすら歩き、時折色々な場所に指を押し当てた。
 花が咲くのを待っていられず、蕾の数も数えず彼は唐突に見える景色や人、聞こえる声に集中した。
『ロックオン』
 柔らかい印象のある若い男の声がする。
 彼は自分の本当の名前を知っている。しかし老人はそれを自分の名前を『ロックオン』だと言った。
 そして記憶の中にその名前を呼ぶ男がいる。
 彼は歩を緩め街路樹の根元にそっと指を置く。
『優しいね、ロックオン』
 花が咲くと同時に、澄んだ少女の声がその名を呼ぶ。墓地で見た、小さく笑った少女の姿が思い出される。彼女の声かもしれない。
 妹とも違う。しかしどこか妹のような愛しさを感じる少女は、自分を『ロックオン』と呼ぶ。
(『ロックオン・ストラトス』の名が秘密なら、それはきっと嘘の名だからだ)
 老人の言葉を思い出し言い聞かせるように彼は思う。
 偽名を使っていた自分、そしてその名を呼ぶ声の親しさに胸が痛む気がしたが、振り切るようにして彼は歩き出す。
「ロックオン」
(え?)
 頭に響いたのではない、鼓膜を震わせる声。
 驚き彼は反射的に振り返る。

 人の多い通りだ。
 そこに夜の闇はなく、真昼のにぎやかなざわめきがあった。
 立ちすくむ彼の腕に何かぶつかる。
「失礼」
「あ、すいません」
 中年の男が僅かにぶつかった、男の言葉に彼もつられ謝る。その顔に見覚えはなく、男も気にした様子もなく去っていく。
 呆然と辺りを見回す、しかし場所に見覚えはない。
(まただ)
 自分はアイルランドの小さな通りを歩いていた。夜だった。誰かが後ろから彼を『ロックオン』と呼んだ。
 慌てて辺りを見渡す、今度は目を凝らして。
 しかし見覚えのある顔はなく、彼に視線をやる者の姿もない。呼んだ声の持ち主はここにはいない。
 また、人とぶつかりそうになり、彼は歩き出す。
 聞こえた声。男の、少し低い、硬い印象のある、若そうな?そう思いかけ、彼は考えを打ち消す。分からないことをイメージで補ってはいけない。
 たった一言を発した声だ。しかし彼はまるでその声に引き寄せられるかのように、振り向いた瞬間に見たこともない場所に立っていた。
 驚いてはいる、しかし落胆と困惑が大きい。
 彼は歩を緩め、待ち合わせの人々の立つビルの壁にそっと身を寄せる。通り過ぎた大きな入り口、恐らくビルは百貨店かなにかだろう。
 また、突然違う場所に来てしまった。今は場所にも思い当るところがなく、声の主を特定することもできない。
 彼はゆっくりと辺りを見回す。得られる情報を探す。
 行き交う人の人種は様々。近代的なビルが多く立つとても整備された街。その中で標識、看板の所々に漢字を見つける。
(アジア?)
 まさか、と思いながらも彼は答えを求め再び歩き出す。
 通り過ぎそうになった掲示板のモニターに慌てて足を止める。映し出される街の地図、流れるニュース。その下の柱に書かれた『東京』『TOKYO』の文字。
 ユニオン領経済特区日本、その首都東京に彼はいた。
 ライルの所在も分からないまま、故郷からも遠く離れてしまった。
 唖然とする彼を余所に親切な掲示板はニュースを流し続け、その末尾に続いた日付は先ほどアイルランドにいた日から1週間後を示した。
 もう一度、こんどは掲示板の脇に身を寄せ、彼は考える。
 1週間後、東京、男の声。来たことがあるとも思えないこの街に自分が関係しているとは思えないし、ライルがいるとも思えない。平和な街の景色にテロや戦争の影を見つけることはできず、カタロンの存在を意識するようなものも考えられない。
 だとすれば、やはり自分が今この街にいるのは呼んだ声の持ち主のせいではないのか。
 声がした瞬間から、彼が突然違う場所にいるのは、彼にとってほんの一瞬のことだがその間にいつの間にか長い時間が経過している。
(あれがもし1週間前の声なら、そいつはそこにいるわけがない)
 あるいは未来の声が聞こえるということなのかと彼は首を傾げる。
 考えても答えは出ない。そしてこんなこと誰にも言えない。
(まして自分はここにいない)
 彼の偽りの名を呼んだ男のことを思い出したいが、人通りの多いこの場所では花など咲いては問題がある。
 クラウスに認識されなかった花は、それでも彼にとっては確かな感触を持つそこにある花だ。
 そしていないはずの自分はクラウスにもそれ以外の見ず知らずの人間にもそこにいるものとして認識されている。
 この場所にいる誰にも花が認識されないとは思えなかった。
 彼はもう一度掲示板のモニターの前に立ち、東京の地図を頭に叩き込み郊外を目指し歩き始めた。
 人目を避け時折指を地面に押し付ける。
 疲労感はやはりあまり感じられず、しかし思い出されるものに時折ひどく動揺させられ、時折足を止めた。
 墓石を囲んだ花が見せた何人かの人も少しずつ思い出していた。モビルスーツやガンダムの姿も度々脳裏に浮かんだ。
『私たちもまた、ソレスタルビーイングのガンダムマイスターなのです』
 男の声。初めて聞こえた声だ。
 その声、言葉に彼の足が止まる。
(ガンダムマイスター?)
 聞きなれない言葉を頭の中で反芻する。マイスターとは、パイロットのことだろうか。
 しかしそれ以上に引っ掛かるもの、声の言う『私たちも』その声の主がソレスタルビーイングの一員だとして、それ以外にもいるということを指している。そしてその声が自分に向けられているなら、自分はソレスタルビーイングにいたということになる。
 ソレスタルビーイングは武力を持って世界の紛争に介入した私設武装組織だ。テロリストと同じだ。
 自爆テロに巻き込まれ家族を失った自分がそんなものに加担するはずがない。
 しかし彼は再び思い出す。ソレスタルビーイングが初めて武力介入を行った場所。人革連の軌道エレベータの低軌道ステーション天柱へのテロへの未然防止としての介入、それからもう一つ、アフリカタワーからほど近い『AEUの軍事演習場』。
 彼は間違いなくアフリカタワーの近くにいたと分かっている。
 では、何のためにそこにいたのか。
(まさか俺が『武力介入』をしたっていうのか?)
 ソレスタルビーイングという組織はガンダムという存在以外全てが謎に包まれている。どうやってアイルランドのごく普通の家庭に生まれた自分がそんな組織と係わるというのか。
(しかし、ライルはカタロンに係わっている)
 考えすぎだと一笑に付してしまうことが出来ない。再び手を伸ばした指が地に触れることを拒むように震える。
 知りたくない。思い出したくない。
 しかし全ては自分の記憶の中にあるのだ、彼は意を決し指を付ける。
『私たちはソレスタルビーイング』
 開いた花とともに、聞こえた男の声。彼はそれを知っている。
 硬質な響きをもつ、生真面目そうな声。自分の手を取って『みどりのゆび』だと、そう言った老人の声だ。
(なんであの人がそんなことを言うんだ?)
 空を仰ぐ、平和な色の広がるそこに当然答えはない。
 あるのは自らの記憶の中だ。分かっていても焦る気持ちが止まらない。
 溜息とともに顔を前に戻す。
 しかしそこに東京の街の景色はなく、一面の砂漠がある。
(まただ)
 もはや諦念の思いで、目を細める。
 遮るもののない砂漠の色を途中で変えるものがある。影だ、それも途轍もなく大きい。
 彼は振り向く、そこにある世界最大の建造物。軌道エレベーター”ラ・トゥール”。

 アフリカタワーの周囲を囲む都市を彼は歩いた。
 それからまた、唐突に移動をする。何度もそれは起こった。
 どんなタイミングでそれが起こるのかはっきり定義は出来ない。ただ、思いを馳せ、時折呼ばれ、引き寄せられる。
 振り向くと、目を閉じると、眠りにつくと、彼は知らない街にいる。その度に時間も飛ぶ。
 同じところにいるのは殆ど半日から数日で、少しずつ時間の飛ぶ感覚が長くなっていった。世界を見ている時間が短くなったように彼は感じた。
 中東出身の一人の少年を思い出した。
 仏頂面の幼い顔を、自分はいつも見ていた。
 思いだした名前を初めて声に出した時、初めてとは思えないほど自然に口をついた。
 少年の名前は『刹那』。
 アイルランドで彼の名を呼んだ声の持ち主だ。
 刹那が東京にいたことがあることを、彼はしばらくして思い出した。
 その刹那の声は度々聞こえた。
 しかし辺りを見回しても既にそこには刹那の影すら見つけられず彼は途方に暮れる。
 モラリア、スコットランド、タリビア、旧スリランカ領セイロン島、その声は色々な場所に彼を引き寄せた。
 その地を歩き、押し付けた指の先から花が咲く度彼は思い出した。
 途中何度目かの声が聞こえた時、彼は気が付く、刹那の声に引き寄せられる場所はかつてソレスタルビーイングが係わった場所だ。刹那は『ガンダムマイスター』の一人だった。
 刹那は自分が係わった場所の今をを見て回っているのかもしれない。それは彼の想像の範囲を出ないが、きっとその場所に刹那がいたのだと彼は自分に言い聞かせ、その目が見たであろう景色を目に焼き付けた。
 そして花が咲き、思い出せば出すほど、パズルのピースが埋まっていくように、彼がソレスタルビーイングに係わっていたということは揺るぎない事実として彼の記憶の隙間を埋めていった。
(それじゃあ俺はライルがカタロンに係わった元凶じゃないか)
 疑念が確信に変わり、彼を苛む。
 ソレスタルビーイングのガンダムマイスターとしてガンダムを駆り、世界に武力介入を行った自分。ガンダムマイスターの『ロックオン・ストラトス』だ。
 彼には理由があった。
 世界を変えたかった。愛する『ライル』の生きる世界を争いのないものにしたかった。
 テロを憎む気持ちを持ちながら、その上で彼はガンダムに乗った。その矛盾を分かっていても。
 そして彼が思い出すのを待たず、彼は再びあの老人の姿を目にする。
 ソレスタルビーイングの声明を流す映像。そこに映る創設者『イオリア・シュヘンベルグ』その声も顔もあの老人と一致する。
 そしてその声明の行われたその部屋は、彼が老人に会ったあの部屋だった。

 ソレスタルビーイングのことをたくさん思い出した。
 思い出した幾つもの笑顔、幾つもの名前。
 戦争根絶という理念を武力によって実現しようとしたソレスタルビーイング。狂信者達の集団、テロリストだと世界の非難の的になった。
 それを否定する言葉を彼は持たない。
 しかしそこにいた人々には、それぞれにソレスタルビーイングにいる理由があり、彼にとっては仲間と呼べる存在だった。
 彼らの所在や、考えたくなかったがその生死についても知りたかった。
 刹那の声が聞こえる反面、他の仲間たちの声は頭に響いてくる記憶の声ばかりだった。もし他の仲間が宇宙にいたらきっと声は届かない、彼はそう自分に言い聞かせた。
 何も確証はなかった。
 彼はガンダムマイスターの一人『ティエリア』がとても穏やかな顔をしたことを思い出した。
 思い出した瞬間ひどく珍しいものを見たという気持ちになったが、いつのことだったかすぐに思い当らず首を傾げる。
 それを思い出したいと思ってからしばらくして、彼は密林の中に立った。
 周囲を見渡してもその場所を指し示すものは何もない、しかし彼には思い当たるものがあり、すぐ踵を返す。
 木々の間から突然姿を現す1台のコンテナ。
 彼の記憶と殆ど変わらぬ姿でそこにある。
 ソレスタルビーイングが隠れ家としてコンテナを置いていた太平洋に浮かぶ孤島だった。
 目にした瞬間飛び付く様に中に入った彼は暗闇の中で一つの塊を見つける。
 迷いのない動作で照明のスイッチを入れる。
「エクシア」
 明かりの中で姿を現したもの、思った通りのものがそこにある。
 『ガンダムエクシア』破損が激しいが彼は間違えたりしない。
 2308年に国連軍が行ったガンダム掃討作戦以降、世界から姿を消したソレスタルビーイングのガンダムだ。
(刹那)
 彼は衝動的に走り出した。
 そこに人気は感じられなかった、それでもどこかにいないかとコンテナに併設された控室や、周囲の森、一番近い浜の方まで見て回った。刹那の姿は見つけられなかった。
 彼はコンテナに戻り、もう一度エクシアを見つめた。
 よく見ると、周囲には本体以上に壊れたたくさんの部品、工具の類が置かれている。
 金属の削られた傷、鮮やかな色を変色させた焼け焦げた跡。配線の剥き出しになった頭部の右側。
 1年以上も前についたはずのその傷跡は生々しく彼の目に映る。
 この傷跡がどうやってついたのか彼は知らない。彼が消えた少し後にソレスタルビーイングは世界から姿を消した。
 それは紛れもない事実で、彼は情報としてそれを知っている。
 たった4機しかないガンダムの1機が自分のせいで失われた。その消滅を早めた理由の一つは自分だったのかもしれない。
 彼は『ロックオン・ストラトス』の使命ではなく、『ニール・ディランディ』の悲しみと怒りから生まれた復讐心から最後の引き鉄を引いた。
 それは覆らない。そしてその時の自分の気持ちを彼は否定出来ない。
 今、彼の前に横たわる傷だらけのエクシア、そこには確かに修理の跡がある。
 左の手でそっとその機体に触れる。
 恐らくコンテナに保管されていた僅かのユニットを駆使し、破損箇所を取り外し補強したのだろう。
 それが出来るのは刹那しかいない。
 刹那は生きている。
 世界はソレスタルビーイングの消滅に安堵したかもしれない。
 しかし、仲間が生きているという確かな痕跡を彼は嬉しいと思ってしまう。
 冷たい金属の感触が彼の胸をじわりと温める。
 それと同時に修繕の跡のあるエクシアは次の出撃待つようにひっそり傷を癒す戦士の姿のようにも見え、その想像に苦い思いが込み上げる。
 ソレスタルビーイングの出現、それに対抗するという形で一つにまとまった世界。
 カタロンや刹那の目にはそこに生まれた綻びが既に見え始めているのかもしれない。
 彼は刹那に会うことは出来ないまま、3日後また知らない町に立つ。
 その3日の間に彼が思い出したものの一つ『アリー・アル・サーシェス』彼が憎んだ男の名。

 小さな声だった。
 振り返った街の景色に変わったところはない。
 しかし、気のせいなんて思いたくない。
 もう一度呼んでくれと、祈るような思いで、目を閉じ耳を澄ませる。
 聞こえた声の持ち主の顔も名前も彼は思い出している。間違えたりしない。
 長い前髪の気の優しいマイスター。彼の持つ二つの名前を思い出し、二つの色の目を思い出した。
 悲しい想像はしたくなかった。
 しかしどれだけその気配を追おうとしても今まで一度も何も感じられなかった。
(絶対に聞こえた)
 しかし、やはり何の変化も感じられない。
 彼の周囲からゆっくりと街のざわめく音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなる。焦る彼はそれに気がつかない。
 ため息と共に目を開ける。
 そこには闇。
 自分はまだ目を閉じているのかと疑うような色に、彼は思わず瞼に触れる。
 目の前にあるはずの手すら見えない。しかし指先に瞬く睫の動きが伝わる。閉じても開いても変わらない色。
 彼はその小さな声の元ににたどり着いていた。
 振り向く。小さな天窓から細い光が注ぎ、その下にある塊を照らしている。
 白い塊、その上に乗った小さな黒い塊がほんの少し動く。
「アレルヤっ」
 人の頭だ。その乱れた髪の間から、金色の目がぎらりと光る。
(ハレルヤ?)
 彼は駆け寄る。
 傾いでいた頭が真っ直ぐに起き、金と灰色の双眸が現れる。
「アレルヤ、それともハレルヤか?」
 思い出した記憶の中に両目を晒すアレルヤの姿はない。しかし今、美しいその二つの色を楽しむ余裕などない。
 顔の半分を覆ったマスク、ひどいくまがあり顔色が悪い。拘束された体、着せられた妙な服には鍵まで付けられている。外すことができない。
 どうして、いつから、アレルヤがこんな目にあっているのか、彼には分からない。激しい怒りがこみ上げる。
 彼は叫び、揺さぶり、しかしアレルヤはびくともしない。
 アレルヤは彼が見えていない。
「なあ俺だよ、ここにいるだろ?」
 澄んだ二つ目は目の前にいる自分に、何の反応も示さない。
(俺を見ろ、見てくれ)
 しがみつく様に手をついた背もたれの上から芽が出る。
 伸びてきた茎、しな垂れるように曲がったそこに連なるように蕾がつく。顔の横まで伸びてきたそれに彼は気がつく。
 それに気がついたかの様にアレルヤが僅かに顔を動かす。小さな花が咲く。
「あ」
 二つの色の目が細められる。まるで笑ったように。
 次の瞬間、彼の背後でガチャという金属の硬質な音が背後からする。
 先ほどは気がつかなかった扉がそこにある。
(誰だ)
 薄く開き始めたそこに人影が見える。
『マリー?』
 頭に響いたアレルヤの声、驚き顔を戻そうとした瞬間、突然襲いかかるような強風を感じ、彼は顔の前に手を翳す。
 思わず閉じてしまった目を慌てて開ける。吹きすさぶ風は続いている。
 明るい砂の大地が広がっている。
 暗い部屋もアレルヤの姿もどこにもない。
 アレルヤを置いてきてしまった。一瞬でも目を背けてしまった。
 叫びたいような衝動を抑え、再び目を堅く閉じる。
 もう何度も同じ状態を経験しているのに、怒りや悲しみの気持ちに頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。自分の迂闊さを呪いたい。
 目をそっと開く、変わらない砂漠の景色がそこにある。アレルヤの元には行けなかった。
 呆然と辺りを見渡す。砂の中から、モビルスーツのものと思われる破片が大小、色も様々に姿を晒しているのに彼は気がつく。
(ああ、タクラマカン砂漠だ)
 アレルヤと二人でこの地に降り立ったことがある。
 あの時ヴァーチェの作った長大な砂の谷は形を失くしている、しかし彼はこの場所を疑わなかった。
 世界を分ける三国家群の軍事力が集結した16時間に及ぶ戦い。たった4機で迎え撃った、自分たちの無謀はあの時から理解していた。
 悪夢とも思えた時間。しかしその感慨よりも目の前に点々と転がる破片の数に驚く。
 その数だけ、傷ついたり失われた命がある。
(アレルヤ)
 生きていた。間違いなく。ひどい状態だったがその目は澄んでいた。彼には気がつかなかった、しかし恐らく花が見えていた。
 近くにある青い破片に彼はそっと手を置いた。
 小さな芽が生え、蔓が延びる。
 砂に強い花は何か、彼は思った。
 植物が根付くにはあまりに過酷な環境だと、分かっていた。それでも触れずにはいられない。
 砂と風に負けないように何度も。
 争いの欠片が静かに風化できるように、何度も。
 例えその花がその罪の全てを知るまで何度も。
 しばらくして、何もない砂漠の向こうに小さな砂煙が立った。
 彼は近づいてくるものがジープに気がつき、誰かが自分を見つけたことに気がついた。
 彼の近くでジープは止まる。二人の男が乗っている。彼らは砂漠に一人きりの彼を訝しげに見たが、町まで乗れと言った。
 武骨そうな男たちだが、その言葉には人を気遣う温かみがあった。
 彼は大丈夫だと首を振る、男たちはもう一度乗れと言い、彼は笑って首を振る。
 こんな場所で一人きりの彼の大丈夫という言葉には何の根拠もない。
 彼の頑なな様子に男たちはジープを走らせた。最後まで、街の方角を絶対に忘れるなと繰り返し言った。
 男たちを見送った彼の手には水と帽子が一つあった。
 彼は帽子を被り、また砂に指を押し付ける。真っ直ぐ真っ直ぐ、心配げに男たちが指し示した街の方角へ歩き、時折指を押し付ける。芽吹き、蔓を伸ばし、花が咲き、思い出す記憶の欠片にしばし足はとまり、風に煽られながら一歩ずつ。
 二日間彼はゆっくりと歩いた、夕闇が迫ると大きな破片に寄り添って朝を待った。やはり疲労も空腹もあまり感じないまま、地平線に太陽が昇ると歩き出した。
 歩き出して間もなく緩く長く彼は砂の斜面を登りはじめていることに気がついた、丘が途切れた先に街が見えた。
 振り返ると点々と小さな緑が続いている。
 広大なタクラマカンの砂漠に点々と。
 彼は丘の上にまた指を押し付けた、惜しむように何度も。日が傾きはじめた頃、彼は水筒の水をバラバラと撒き、それから真っ直ぐに砂の丘を下りはじめた。

 濡れた足音がした。
 故郷アイルランドの墓地に彼はいる、雨が降っていた。
 近づく足音が背後で止まる。彼は振り返り、驚いた。
 目の前に刹那がいる。
「刹那」
 家族の墓石の前に立つ刹那と墓石の斜め後ろに立つ彼。声が聞こえない距離でもなければ目の前にいるのに気がつかない距離でもない。
 彼はじっと墓石を見つめ、それから手に持った白い花の花束をそっと置いた。
 彼は以前そうしたように今度は墓石の後ろの地面に触れた。家族に贈れる彼の唯一のものだ。
「ロックオン」
 呼ばれた。
「おまえはここにいるのか、それとも宇宙か?」
 突然の問い。
「俺はここにいるよ」
 しかし、刹那は気がつかない。
 アレルヤにも見えなかった。そして今、刹那にも彼の姿は見えていない。
 それは刹那の中でもロックオンの死は既に覆らない事実として存在しているからかもしれない。
(それに、あいつはライルを知ってるから)
 双子の弟の存在を教えたのは彼自身だ。だから刹那はここにいるはずのない『ロックオン』の存在を疑わないのだろう。
 物言わぬ墓石に刹那は問いかける。
 背が伸び、顔からも幼さが消えた。元々低かった声の高さには変化は感じられないが、成長した彼の姿に胸が熱くなる。
 彼の足もとでは白いバラが旺盛に伸びていく。幸い刹那の声を遮るような記憶の映像は出てこない。
「これから俺のやることはお前の意に沿っているか?それとも…反しているか?」
 澄んだ瞳、しかしその目に自分は映っていない。
「もう一度おまえと共に戦ってもいいか…?」
「え?」
 彼は呆然と刹那を見た。
 彼は『ロックオン・ストラトス』はここにいる。彼は死んだ。彼はもう戦えない。彼はもう銃を握ることが出来ない。
 先ほど、死んだ彼の所在を問うたのは刹那だ。
 しかし刹那は知っている、ライルを。
 ライルがカタロンとして今の世界に異議を唱える者だとしたら。刹那がそれを知ったら。
 刹那が踵を返した。
「刹那」
 彼の声に刹那を止める力はない。
 その背を追おうとした足が不意に引っ張られる。
 彼の手向けた白いバラが、彼の行く手を阻むように左の足に巻きついている。
 彼はそれを引き剥がした。花が落ちないように、しかし慌てた拍子にその棘が彼の手を傷つける。
 自由になった彼の足で走り出した。
(待ってくれ)
 声は届かないのに、もし気が付いた所で何と言えばいいのか分からないのに。
 遠くで刹那の乗ったバイクが走り出した。
「刹那」
 墓地の入り口で彼は立ちすくむ。
 刹那の真剣な表情は迷っているとは思えないようなものだった。
 ライルが刹那に会ったら、共に戦うことを選ぶかもしれないと彼は思った。
(あいつが本当にカタロンに入ってるならそれはあいつの意思だ。それはあいつも変えたいと思っている)
 彼はそれを願わない、しかし彼には止められない。
 どれほど願っても彼はライルに会えていない。


※後編に続きます。